二万二千西域記 ーその3

翌朝、なにはともあれと銀行へすっ飛んでいったが、銀行はまだ開いていなかった。

ロビーには入れたので座っていると最初にやってきた銀行員のおばさんに怪訝な顔をされ、

換金しにきたのだ、何時に開くのかと尋ねると九時だという。

携帯画面をみるとちょうど八時五〇分を回ったところだったので、

それならここで待つと言うとさらに怪訝な顔をするおばちゃん。

来る銀行員、来る銀行員みなに怪訝な顔をされるのでなぜだろうと考えていたが、

携帯に表示されているのは日本時間で時差があることをすっかり忘れていた。

銀行の時計を見たらまだ八時前だった。

それなら外でもぶらつこうと街へ出る。七時台の西安はすでに活気づいていた。



あっちへこっちへ路地を歩くうちに、やっと大好きな光景に出会う。

道の両端に燦然と広がる露店の数々―、生肉、野菜、果物、鮮魚、野菜、果物、果物…

生きたままの魚を道路に投げつけ、そのあと鉈でまっぷたつ。

肉も容器なんかなしで、大小むき出しに並んでいる。

店数が一番多かったのは、桃、ぶどう、それからくるみ。

くるみは青い実のまま、果肉をナイフで削ぎ落としながら売っている店も多くあった。

前回うっかり財布の中身は五角と書いてしまったのだが、この時点ではまだ五元残っていた。

その五元で饅頭を食べ豆乳を飲み、肉まんとりんごをひとつ買った。

全部食べてしまうつもりでいたが、また食事に困ることがこの先あるのではという危機感から

肉まんとりんごは食べずに持って帰ることにする。

そうしてギリギリ五角残して、ようやく日本円を元に換金することができたのだった。



ユースホステルに戻ると、チンとブリーはようやく起きはじめたところだった。

ふたりが朝の身支度をしている間に荷造りをすすめる。

その晩、わたしは夜汽車に乗って平遥へと出発するつもりでいた。

借りたお金をブリーに返すとさっき換金したばかりだというのに財布にはもう二百元も残っておらず、

ふたりに朝食を食べに行こうと誘われ一元だって無駄にできないと思いながらも、結局その誘いを断ることはできなかった。

西安の、というよりは中国のすごいところなのかもしれないが、

歴史的価値のある建造物や施設でも入場料なしで見れるところというのが結構ある。

この日、三人で見に行った「小雁塔」も身分証明証を見せれば誰でも入ることができ、

敷地内には仏塔がいくつも並び、三階建ての広くて立派な博物館まであるのだった。

物見遊山する間もふたりはどこまでも優しかった。

チェックアウト済みだったわたしの旅行カバンを重かろうと代わりばんこに抱えてくれ、

ここのお店が美味しいのだと台湾のアイスクリームをごちそうしてくれた。

電車は夜なのだから荷物は一旦ユースホステルに置いておいてはどうかというチンの提案もあって、

わたしたちはユースホステルへ引き返すことにした。

フロントに旅行カバンと手荷物を預け、例の八人部屋へ戻ると一人の若者が昼寝をむさぼっている。

起こさないように声を潜めながらおしゃべりしていると、

若者はむっくりと起き上がりなぜ英語で話してるのかと聞く。わたしも中国人だと思っていたらしい。

中国で英語教師をしているというイギリス人のダニーにチンの好奇心は動かされ会話にわっと花が咲いたが、

そんなチンの様子を面白くなく思ったのか、本当に眠かったのか、

ブリーは疲れたと言ってひとりベッドへ潜り込んでしまった。

わたしも今夜の平遥行きの電車がいくらなのかを聞くためにフロントへ出て行った。

しかし、ここへきてなんとなく予想していたことが起こってしまった。平遥行きのチケットが買えない。

買えないというのは少し誤解があって、もちろん空席はあるし、時間的にも金銭的にも行くことはできる。

ところが行ったが最後、この西安に帰ってくることのできるお金の余裕が無かった。

こんなことで旅を諦めなくてはいけないなんて、という思いとどこか安心する思いが同時にわたしの中にあった。

本当は、電車で長時間かけて違う街へ移動することが今回一番やりたかった。

しかし前日に西安駅で見た溢れんばかりの人と、その間を回遊する警官、

そして遠慮のない客引きの目に言い知れぬ不安を感じていた。

それでもまだ、行ってしまってもどうにかなるんじゃないかという気持ちと、

本当に帰ってこれなかったらどうするという気持ちに揺れて

チケットセンターに行くべきか迷っているうちに、スコールのような雨が降り出した。

吹き抜けのフロアに驟雨が打ちつけられ、タイルがびちびちと激しく音を立てる。

回廊に張り付くようにそろりそろりと進み、

それでも平遥行きの時間と金額を書いたメモは握りしめたまま部屋へ戻った。

雨は二時間ほどで止んだ。



ダニーとチンに誘われて夕飯を食べに街へ出る。

チケットセンターにも寄ったが、すでに営業終了した後だった。

今夜発の切符を買えなかったわたしをチンは本気で心配していたが、

どのみち買ったら帰ってこれなかった切符だ。

もはや今夜は西安に留まる以外、選択肢はなかった。

おそらく中国語が少しでも話せていたら帰りの切符代が無いのも気にせず平遥へ行っていただろう。

たぶん、これでよかったんだ。

羊肉泡饃をほうばりながら、夕食の誘いにも出てこなかったブリーのことが気になっていた。

ユースホステルへ戻り、チケットセンターが閉まっていて買えなかったので今晩も泊まりたいと伝えると

フロントの子もチンと同じくらい心配してくれた。お金が無かったとは、恥ずかしくて言えなかった。

昨日までいた八人部屋は満室だったので三階の六人部屋をあてがわれ、チンはかなり残念がった。

その晩は、同室の日本語を学んでいる中国人の女の子と大雁塔の噴水ショーを見に行き、

新しい出会いに気分もだいぶまぎれたが、部屋へ戻ってふと荷物に目をやると、

手さげ袋に穴があいていて今朝買った肉まんが食い散らかされていた。

さしずめ、フロントに預けていた時に近くにいた猫かなんかに食べられたのだろう。

幸い、りんごは無事だった。



ベッドに寝っ転がりながら、これまで西安での旅を支えてくれたチンとブリーのことを考えた。

きっと明日も、二人はわたしに優しいだろう。わたしもいろんな心配をしなくて済む。

明日からの残りの三日間、いったいどのようにして過ごしていこうか。

もう一度二人の顔を思い浮かべ、そっと目を閉じ、二人とさようならすることを決めて眠りに就いた。

二万二千西域記 ーその2

真上のベッドの客がかなり遅い時間に出入りしていたことと、

かなり豪快ないびきをかいていたこともあって完全に寝不足のまま西安の二日目は始まった。

駅までバスに乗ったことで、ようやくバスが一律一元であることが分かった。

これでこの先は不安なくバスに乗ることができる。

西安駅についてからまずブリーが始めたのは、どこで華山行きのチケットが買えるかの聞き込みだった。

何人かに聞くうち、ひとりのおじさんが旅行代理店のおばさんを捕まえてきてくれたのだが、

どうやらブリーとおばさんの交渉は難航しているようだった。

見たところによると、少しでも予算を抑えたい我々とおばさんの値段交渉になっているもよう。

しかし結局はおばさんに強引に押し切られ、せっつかれながら代理店へついて行くことになった。



この時点で、わたしはほぼ中国元を持っていなかった。

華山行きの代金もブリーが貸してくれたおかげで華山へ登れることになったのだが、

三月に行った香港と同じ気分で来てしまったのがそもそも間違いだった。

香港ではあれほどたくさんあった換金屋がまったくなく、

西安に来た時点で、財布の中には五年前に北京を訪れた時に残った四百元と日本円が少しあるだけだった。

しかし、それも二日分の宿代とチンからサンダルで登るのはさすがに危険だと言われて

昨晩ショッピングモールで買った運動靴に消えていて、いま財布の中には百元も残っていなかった。

チンとブリーは朝食を普段からあまり食べないのか、バスを待っている間も特に何も食べようとしない。

起床してからすでに一時間半以上経っており、お腹は空いていたが食堂に行こうとも切り出せず、

機内食だったコッペパンをちぎりちぎり朝食とした。

食事に困ることもあろうかとコッペパンを頂戴しておいてヨカッタ。



西安から華山は一二〇㌔以上離れており、途中トイレ休憩も入れて三時間ほどかかって、

おしりの皮が薄いのか長らく一所に座っていられないわたしにはかなりの苦痛だった。

バスの中は家族連れがほとんどで外国人観光客はわたし以外におらず、

バスガイドがぶっきらぼうにまくしたてるのをときたまチンが英訳してくれる。

寝不足と空腹と座っていることの苦痛にどんどんと気力を奪われ、

これは到底山になど登れる体調ではないと思っていたが、

やはり山は性に合っているようで実際に華山に登り始めるとみるみるうちに息を吹き返し、

さっきまでぐったりしていたのを二人が訝しむくらい溌剌としていた。

二千メートル級の山だというのでさぞみんな重装備かと思いきや軽装備の人ばかりで、

その家族連れの多さと軽装のほどからして、みな高尾山に登るくらいの気持ちなのかもしれない。

クロックスなんか履いている人もいて、何のためになけなしの百元札をつかって運動靴を買ったんだか

と嘆いていたが、これはサンダルでは無理だったなと思う難所がひとつだけあった。

それは断崖絶壁を命綱をつけて渡って行く「長空桟道」と呼ばれる箇所で、

まあこの道は通らなくても本当は先に進めるけれど、ここまできてここを渡らずにいられるかと思い

三〇元払ってわざわざ挑んだのだが、そのスリル満点さは画像でも検索していただけば一目瞭然である。

しかし意外にも渡ってみると恐くなかった。

おそらくあまりの雄大な景色に恐怖心を忘れてしまったか、

行き来する登山客の呑気さに恐さを感じずに済んだかのどちらかだろう。

驚いたのは、その幅五〇センチにも満たない木の板の上で命綱をつけた人が行き交うことだった。

なぜわざわざこんな狭いところで行く人戻る人が同時に渡るのかとはじめは信じられない思いだったが、

なんだか途中からその危険さえも楽しいと思えてくる。

しかし華山が険しい山であることに変わりはなく道々の標識には

「歩くときは景色を見ず、景色を見るときは歩かず」となんとも恐ろしいことが日本語で書いてあった。

団体バスで来たから団体行動するのかと思いきや、全員がまったくの単独行動だったので

同じバスに乗ってきた人たちには、帰りのバスに乗るまでついぞ出会うことがなかった。

途中、長空桟道で武漢から来た男の子と友達になったり、

ロープウェイに乗り合わせた若者たちとおしゃべりしたり、

中国の若者たちは誰とでもすぐに仲良くなれて、しかも別れ際が潔い。

旅先で誰かと行動を共にするなんてほとんど初めてだったけれど、これも悪くないなと思い始めていた。

二一時頃に出発したバスは、帰りは一度も止まること無くものすごい速さで高速を飛ばし、

こちらがおちおち寝ていられないほどクラクションを鳴らしまくって二三時過ぎに西安に帰ってきた。

夕食もとらずにそのままユースホステルへと帰る。

西安へ来てからまともな食事を取ったのは、この日の昼くらいだった。

あとは前の晩に羊串と、今朝のコッペパン、帰りのバスでつまんだ干牛肉。

食事らしい食事がしたいなあ。

しかし明日まずするべきは換金。

この時点で財布の中身は五角。日本円にしてわずか十円だった。

二万二千西域記 ーその1

目を覚ますと、眼下はあたり一面まっ白い雲の海だった。

白い海に潜るたび、大きな機体が上下左右に大きく揺れる。

見たこともないほど大きな入道雲がそびえていて、

潜っても潜っても、雲の海は下へ下へと続いていた。

そして何層目かの白い海を潜り終えたとき、深い緑の山々が見えてきた。

細い道が尾根を蛇行する。中国だ。



深夜特急』に倣うのであれば、香港の次はタイ・バンコクだった。

しかし、バンコクのチケットが高かったため、どうせなら沢木が飛行機でとばした

香港ーバンコク間も渡り歩いて行ってやろうと思ったのだ。

となると広州になるのだが、たまたま見つけた西安のチケットが非常によいものであったので、

一も二もなく西安行きのチケットに変えた。

始発で行っても飛行機には間に合わなかったため、

前夜から空港のロビーでバッグを抱え込みながら微睡んでフライトを待った。

そのため、席についた安心感から飛行機ではすぐに寝てしまい、

韓国・インチョンで飛行機を乗り換えた時のほかは、ずっと眠っていた。



西安はご存知の通り、かつて長安と呼ばれ多くの王朝の首都だった街である。

空港からは西安市のほかに、兵馬俑のある咸陽市行きのバスも出ていて、

大方の人はこのどちらかに乗るようであった。

これまたうとうとしている間にエアポートバスは西安市内へと到着し、

今晩の宿を探しに「南門」をめざして歩き出したのだが、

初めて歩く街は、現在地から目的地までの距離感がまったく掴めない。

バスに乗りたくても公共バスがいくらなのかバス停には書いていないし、

中国語は多少読めても話す方は滅法駄目なので人に聞くこともできない。

分かっているのは、歩きつづければいつかは辿り着くということだけだ。



西安国際青年旅舎についた頃には、すでに夕方になっていた。

フロントで今晩泊まりたいと伝えるとすでに満室だという。

困った顔をしている間に、フロントのお姉さんがどこかへ電話を一本かけてくれ、

とにかくキャンセルが出て泊まれるというので、とりあえず二晩お世話になることにした。

青天井の吹き抜けを真ん中に、回廊となっている建物が三棟つづいている。

行き先は一番奥、第三棟の二階、廊下の突き当たり、八人部屋。

部屋では中国人の女の子二人とフランス人のおじいさんが、

パソコンの写真を見ながら談笑しているところだった。

部屋に入るなり女の子から中国語で話しかけられ、

話し振りではこちらも中国人だと思い込んでいるようだったので、

日本人であること、中国語は話せないことを伝えると今度は英語で自己紹介をはじめた。

チンと名乗る彼女は流暢な英語を話す黒髪のきれいな女の子で、

その隣で話しかけはしないものの興味津々で私を見つめるもうひとりの女の子は、

英語があまり得意でないらしく、はにかんだ顔で一言だけブリーと名乗った。

チンが明日の予定は何だと聞くので、まだ何も決めていないと話すと、

わたしたちはホァシャンに行くけど一緒に行かないかという。

どこだか分からなかったがとにかく面白そうだと思って誘いに乗ったが、

しばらく話しているうちに、ようやく頭の中でホァシャンと華山が結びついた。

そういえば、華山は二千メートル級の険しい山で中国五名山のひとつ、

と空港でもらったパンフレットに書いてあったっけ。

どのみちひとりでは行き方も分からないだろうから誰かと一緒に行けるなら万々歳だ!



夕飯にありつこうと荷解きして身軽になった体で回教街を歩いてまわる。

西安特有のイスラム料理屋台が両脇にずらっと並んでいて、

もくもくのぼる煙と食べ物の匂いと、そして大勢の観光客で道はごった返していた。

さんざん夜の回教街を楽しんでからユースホステルに戻ると、

すでに就寝支度を済ませたチンが翌朝は6時半起きだと言う。

オーケーと答えてアラームをセットしようとした時、ふいにGshockの電池が切れた。

休日の過ごし方

近年、自分のからだについて思うところがいくつかあり、

その原因がほとんど歯並びにあることが判明したので、

自分でお金も払えるようになったことだし、そういうお金の使い方も悪くないと思い、

近所の矯正歯科に通い始めた。

思いのほか大掛かりな治療になるようで、上下4本の歯を抜くことになった。

そして昨日、初めて1本目の抜歯をした。



歯医者に行くなど、社会人になるまでなかったので、

いまでも毎回緊張しながら歯医者の椅子に座る。

昨日は抜歯という大々的な治療だったため、緊張も並ではなかった。

治療のためとはいえ、健康な歯を抜いてしまったという気持ちがあって、

抜歯後、職場に行ってからも落ち着かず、

結局、夕方に仕事を切り上げ帰ってくるなり寝込んでしまった。



特別、歯が痛んだわけでもないし、出血がひどかったわけでもない。

ただ、健康な歯を抜いたということがどうしても気になって、

本当にあと3本も抜かなくてはいけないんだろうか…と、なぜだか落ち込んでしまった。

晩には起きてごはんをつくるつもりでいたのに、気づいたら翌朝まで寝ていた。

途中、何度か携帯の着信音で起きたものの、

夢うつつだったので、夜中の3時に歯磨きのために起きたこと以外あまり記憶にない。



今日は、もともと半休をもらうことになっていた。

午前中にどうしても立ち会う必要のある行事があったので、

朝ご飯を食べて、掃除を済ませてから、かなり時間に余裕をもって家を出たけれど、

目的地に着いた途端、先方の都合で行事がふいとなくなってしまった。

今日は、半休ではなくただの休みになった。



そのままどこかへでかけてもよかったのだけれど、

仕事用のかばんで来ているし、一度リセットしたかったので寄り道せずにまっすぐ帰宅した。

家に着いた頃、時計はまだ11時を指していた。



台所の棚から白花豆を出し、鍋に入れる。

今日みたいに時間を使ってのんびりできる日のために、ずいぶん前に買ったものだ。

豆を水で戻すのに、4〜5時間はかかる。

友人から借りた本を読み進めて、お腹がすくのを待っていたが、

映画が千円で観れる日だったことを思い出して、身支度を始める。



駅まで行きしな、八幡さまへ切れてしまった革のブレスレットを持って行った。

職場の人に、自然と切れたブレスレットは八幡さまに持って行くといいと言われたので、

お守りを奉納する場所へ願掛けしながら括りつけた。

お願いごとは、できれば叶うと嬉しい。



冬物の上着をクリーニングに出そうと店をのぞいたが、あいにく店は昼休み中で、

玄関には「お昼休憩です」と書かれた札が立っている。

どこもかしこも24時間営業が広がる中で、しっかりお昼休みをとってしまうこの店に好感が持てた。

昼休みが明けるのを、向かいに新しくできたクレープ屋に入って待つ。

いかにもイマドキのオシャレな街の住人になった様な気がして、ちょっと楽しい。

違いも分からないのに、少し気取って「豆乳の生地にして下さい」と言ってみる。

実に楽しい。



映画の上映時間にはずいぶんと時間があったので、行きつけの珈琲屋に立ち寄って、

アイスコーヒーを片手に、気になっている舞台の情報などを調べていたが、

観に行くつもりの映画を昼の回で見てしまうと、夕方の宅配便に間に合わないようだ。

つぎ、いつ宅配便を迎えられるか分からないので、

映画を観るのは夜に回すことにして、ぶらぶらしようと店を出た。



古本屋で本を買い、古着屋を冷やかし、スーパーで食材を買って、

今日入ったばかりの給料を私用の口座に移し替える。



家に帰ると、白花豆はいい具合にふやけていた。

強火にかけて、灰汁を取る。塩を少しふって、煮立ったら中火に落とす。

ときどき、豆にかぶるくらいに水を足しながら、合間に本を読む。

ずいぶん昔に、お世話になった方から頂いた本で、

厚さ1㌢にも満たないその本にはその方の直筆で、

「自分の世界をもっと広げて下さい」と、わたし宛のメッセージが書かれていた。



読んでは鍋に水を足し、水を足しては本を読む。

白花豆が甘く煮えた頃には、太陽は住宅の向こうへと沈みかけていた。





今日のような、どこへも出かけない自分ひとりで過ごす休日は、とても気楽だ。

しかし最近、それでいいのだろうかと思う。

そうやって楽していていいのだろうか。

少ない休日くらい、自分の好きに、気ままにしていたっていいじゃないかと思う反面、

いつまでも自分を甘やかしていいのだろうかと、ふと考えてしまう。

仕事柄、定期的に休日があるわけでもなく、ふいに休みになるし、

その日の行動もすべてが思いつきの私にとって、人と約束を取り付けるのはとても難しい。

いきなり誘われても友達はお休みでないかもしれないし、

そうでなくても迷惑かもしれないなど考えだすと、なかなか人も誘いづらい。



でもそう考えること自体が、自分への言い訳だ。

そうやって言い訳して、結局は楽をしているのだ。

ひとりでいることが苦にならないし、大抵のことは自分でできてしまう。



しかしそれは、自分にとって楽な生き方をしているに過ぎない。

結局、今日という一日を、私は楽する方に過ごしてしまった。




頂いたメッセージのように、自分の世界をもっと広げなくては。

自分から、世界に歩み寄っていかなくては。

来週、つぎの1本を抜きに歯医者へ行く。

また妙な考えにとらわれてしまうのではないだろうか。

けれど、歯を抜くたびに仕事を早上がりしていたんじゃ情けないし、

ひとりでいるとどうも塞ぎがちになるので、来週末は人と会うことにしよう。

四丁目の部屋

この部屋に住み始めてから、丸三年が経った。

月並みではあるが、その間色んな変化があった。

人生で初めてホームシックになったり、自分の中の常識では計れない人に出会ったり、

転職もしたし、両隣の住人が変わりもした。

たったの三年だけれど、それでも確かに三年間過ごしたと思える時間だった。

自分の生活にはたくさんの変化があったけれど、

六畳一間と台所の、決して広くないこの部屋は、引っ越してきた当初とさほど変わっていない。

机と本棚があるだけの、たったそれだけの部屋なのだ。



いちばん落ち着くことのできる場所は、実家ではなく、この部屋になった。



この部屋から出かけて、この部屋に帰ってくる。

あと何回、それを繰り返すだろう。よほどのことがない限り、ここへ住みつづけると思う。



アースの虫除けが、昨晩切れた。

仕事帰りに薬局でつめかえのカートリッジを手に取ったが、棚に戻した。

あの部屋には、キンチョーの蚊取り線香の方が似合う。

蚊取り線香の缶カラを手に、緑道を歩いて帰る。

あの部屋はわたしにとても似合っているし、わたしもあの部屋に似合っている。

坂を上った四丁目の部屋で、四年目の夏が始まろうとしている。

帰り来ぬ本

最近、ひさしぶりにあの本でも読もうかなと本棚を探して、

人に貸していたことに気付く、ということがよくある。

貸したのは、もう何年も前だったりするのだが、

案外だれに貸したかちゃんと覚えている。

それは、その本の持つイメージと貸した人のイメージに重なるものがあったり、

この人にこそ読んでほしいと思って貸した本だったりするからなのだと思う。

そして、それらの本はもう返ってこなくていいと思っている。

数年前だったら、読みたいから返してくれと言ったろうけども、

いまは、その人が持っていてくれたらいいと思う。



なにかとても魅力を感じたものを、ひとに勧めるとき、

ことばにするとどうしても魅力が半減してしまう。

たしかに胸がときめいたはずなのに、口からことばになって出ると、

ただの楽しかったわたしの思い出話になってしまう。

どうしたら、自分の感じた魅力がそのままに伝わるのか。

それは、聞いているひとの興味のアンテナも同じ方向に向いているときだろう。

しかし、それはきわめて稀なこと。

本当にそのひとの中に、ときめきの花が開くのは、

そのひとが自分自身で噛み砕いたときだ。

だから、そのときが来るまで持っていてほしい。

もしかしたら、ずっと来ないのかもしれないけれど、それならそれでもいい。



あの人にこの本を読んでほしい、と考える時間はとても楽しい。

だれかにこのときめきを伝えたいと思う時間も楽しい。

そして、そんな思いを馳せることのできる友人がいる、ということが嬉しい。



いま読んでいる本が読み終わったら、ひさしぶりにあの本が読みたい。

でもまだ読んでいない本は、本棚に山ほどある。

ことばの海に体をあずけ夢見心地で頁をめくる夜は、今日もゆっくり、ゆっくりと更けてゆく―

霧の中の街 ーその4

フェリーのチケット売り場に並んでいると、ひとりの老婆が20HK$札を2枚持って何やら話しかけてきた。

分からないとジェスチャーで伝えると、今度は英語で話しかけてくる。

香港に帰りたいけど、お金がこれしかない。チケットを代わりに買ってくれないか?

わたしも現金は持ってないからカードで買うのだと話すと、それで一緒に買ってくれと言う。

この時点で、だいぶあやしいなとは思った。

しかし、香港に着いたらお金返してくれるかと尋ねると、返すと言う老婆。

それなら自分の分と一緒に買ってあげてもいいよと話すと、拝むようにして感謝をしていた。

2枚チケットを買い、1枚を老婆に渡す。

しかし、側を離れるのは危ない。

一緒にゲートまで行こうと誘い、家は香港なの?マカオには観光?と話しかける。

しかし、老婆のゲートまでの足取りはいやに重い。ゲート前まで来るとトイレに行きたいと言い出した。

どうぞと促し、トイレが見える位置にあるソファで待ってみる。

すると、しばらくしてトイレから出てきた老婆がチケット売り場の方へ歩いていくではないか。

ひとりの白人男性になにやら話しかけている。チケットを買わないかとでも言っているのであろう。

近づいていき、どうしたの?早くゲートに行かないと乗り遅れちゃうよ?と話しかけると、

途端に、あの人が30分後のチケットと交換してくれって言うから変えてあげようかと思ったんだけど…

とゴニョゴニョ言い出した。

そして、チケットを30分後に変えたいからこの舟には乗らないと言い出した。やっぱりか。

でもそれなら、わたしにはどうやってお金を返すつもりなの?と尋ねると、

このチケットはわたしのために買ってくれたんだと思っていたとすっとぼけたことを言う老婆。

違うよ、香港に着いたら返すってあなたが言ったから代わりに買ったんだよ。あげたわけじゃないよ。

と話すと、これ以上は無理だと思ったのか、平謝りに謝りだした。

とりあえずこのチケットを誰かに買ってもらってお金を返してもらおうと、チケット売り場まで行き、

現金で買える人に買ってもらうことで事無きを得たが、気分は最悪になっていた。

怒りももちろんあったが、それよりもなんだか虚しかった。

このままでは、自分の中のマカオの印象が最悪のまま終わってしまう。

この体験を笑い話で済ませるために、何かとびきり気分転換になるようなことをしよう。

それも何かちょっと贅沢なことがいい。

これまで安宿に連泊していた私は、最終日の夜を高級ホテルで過ごすことにした。



香港島に着いてからガイドで調べると、高級ホテルは本当に高級だった。

いくら気分転換とはいえ、ここまで値段が張ると気分は更に落ち込みそうだ。

程よく駅から離れていて、大通りに面していないホテル…

ここはどうだろう。尋ねることにしたのは、バタフライ オン ウェリントンというホテルだった。

フロントで値段を確認し、空きがあるか尋ねると、すぐに部屋を手配してくれた。

日本円にして一泊16000円。

国内でも一泊10000円以上のホテルには泊まったことがないが、今回は特別だ。

部屋は広々としていて、隅々まで手が行き届いていた。

宿泊客用にチョコレートが用意されてあり、棚にはエスプレッソマシーンなんかもある。

ベッドもふかふかだし、16000円がとっても安く思えてきた。

テンションが上がり、さっきの老婆とのことなど本当にどうでもよくなって、

彼女も大変なんだろうな、とすでに嫌な気分になったことも忘れかけているから私もずいぶん単純だ。

何よりも私が喜んだのは、きれいなタオルとドライヤーが部屋にあることだった。

この日の睡眠は、この上なく気持ちよかった。



最終日の3月6日は、二十四節気の「驚螫」。日本で言う、啓蟄の日にあたる。

私も馴染みがなかったが、啓蟄は冬籠りしていた虫たちが春の訪れを感じて地上に這い出してくる日のこと。

朝から香港最古の廟に行って、地元の人たちと一緒になって開門を待つ。

お参りを済ませ、飲茶樓で地元のおじいちゃんたちと相席しながら点心を食べる。

点心を蒸す温かい湯気が充満する店内で、思い思いの朝を過ごす老人たち。

昨晩の競馬の勝ち負けを報告する人があれば、自分の茶碗で入れ歯を洗う人もある。

まだ9時前にもかかわらず店内は満席だったが、観光客は私だけだった。

おじいちゃんたちは私が日本人だと分かると、そうかいそうかいと笑いかけてくれた。

そんな笑顔に送り出され、円卓を後にし空港へ向かう。



香港は、やわらかい霧雨と食べ物から立ちのぼる湯気で包まれていた。

すべての景色は、春めいた霧の中。

まるで夢の中の出来事のようだった。



沢木耕太郎が26歳のとき、長い旅の始めに踏んだ土地が、香港。

その土地を、あとひと月で26歳になる私が踏む。

はじめは、まったく同じ道をなぞろうと思っていた。

しかし、同じ道を通ったからといって、同じものが見えるわけではない。

沢木耕太郎が見た香港は、きっともうここには残っていない。

途中からは、脚の赴くままに任せることにした。

ましてや私は、このあと仕事のために日本へ帰らなくてはいけない。旅を続けられるわけではない。

同じ景色を見れるはずがないのだ。

それでも、世界を知りたいと思う。沢木が旅で感じた世界を、私も感じてみたい。

すれたバックパッカーにならずに、どこまで人の良さを信じたままでいられるか。

自分が無知なことも、世間知らずなことも分かっているけれど、いまの私の目でものを見たいと思う。

そこに住んでいる人のとなりに座って、同じ景色を眺められるか、試してみたい。

だから、ずっと旅を続けられるわけではないけれど、長い休みに入るたびに戻ってこよう。

一コマずつ、ロンドンまで進めてみよう。

これは、私なりのMidnight Local.

深夜特急ならぬ、各駅停車の旅なのだ。