眠るアジア -その3

 今回の旅は、移動がテーマだった。これまでも、ひとりで海外を旅することはあったが、基本的にひとつの町にしか滞在していなかったので、町から町へ、国から国へと移動するのは初めてのことだ。それゆえに、タイ国境を目指す電車の中ではすでにクライマックスを迎えたかのような気分になっていた。地続きに他の国へ越えてゆけるなんて、やはり不思議な気持ちになる。

 パダン・バサール駅は広くて何もない駅だった。特別案内板もないので、寝台列車のチケット売り場を見つけるにも一苦労する。チケットは割と早くに売り切れてしまうとインターネットの記事で読んだので早くに来たのだが、それでも早く着きすぎたようで、窓口では2時間後にまた来てくれと言われてしまった。時間を潰そうにも潰す場所がないので、駅の外まで行ってみることにする。

 外ではイミグレーションの前で長蛇の列ができていた。駅の中にもイミグレーションがあったところを見ると、この人たちは電車ではないルートで国境を越えるんだろうか。それにしても、列の進みが遅い。タイのお金を持っていないので、換金ショップが近くにあるか聞こうと並んではみたが、あまり遅いので辟易してくる。結局、換金できるところはないと言われ、仕方がないのでマレーシア側にとって返し、市場で時間を潰してから駅に戻った。

 その後、チケットは無事に買えたものの、イミグレーションが開くまでさらに2時間待つ必要があった。外はかんかん照りだし、行くところもないので、駅構内のベンチで本を読んで過ごしたが、ここのイミグレーションもとてつもなく時間がかかった。並んでいる人数は少ないのに、あまりに時間がかかるので、旅行者たちは不思議に思い、何度も前をのぞいたりしている。

 皆がしびれを切らし始めた頃、別の係員が並んでいる旅行者のパスポートをチェックし始めた。これで少しはスムーズになるかと皆が思った時、わたしの前にいた男性の横で係員がぴたりと止まった。係員は男性がイスラム圏の人間だと分かると、パスポートを乱雑に返しながら、あっちへ行けという。男性が怪訝な顔をしても、係員は表情を変えることなく、あっちへ行けと身振りするのみだ。男性のパスポートに何か問題があるらしいことは分かったが、何が必要でどこに行かなければならないのか説明はなされなかった。男性が不案内な駅の中をうろうろ歩くのを見て助けたいと思ったが、何が問題なのかが分からず、ただうつむいて自分の番を待つほかなかった。係員は、わたしのポスポートはチェックしなかった。

 

 なぜ、チェックされなかったのかと考えているうちに順番が回ってきたが、その時、問題は起きた。係員がチョップがないと言うのだ。始め、チョップの意味が分からず、押し問答しているうちにスタンプのことだと分かったので、マレーシアのスタンプならここにあると指さしたが、係員はもらってこいの一点張りで、どこでもらってくればいいのかと尋ねてもあっちだと言うだけで、そのあっちがどこなのかがちっとも分からない。いよいよ困ったと思った瞬間、マレーシア人のおじさんが流暢な英語で助け船を出してくれた。つまりは、マレーシア出国のスタンプが足りていなかったのだが、そのスタンプを押してもらう場所は、なんと昼間わたしが並んだ駅の外のイミグレーションだったのだ。

 あの長蛇の列を思い出しただけでぞっとした。よっぽど悲惨な顔をしていたのだろう、おじさんは俺が連れて行ってやるというと、すたすたと歩き出した。

 「君は何時にこの駅に着いたんだい?」

 「11時にはいました」

 「一体この時間まで何をしていたんだ!?」

 「駅外のイミグレーションに行く必要があるなんて知らなくて…すみません…」

 真っ赤なテニスバッグを肩に大股で歩くおじさんに必死で追いつきながら、この人がいなかったらどうなっていたことかと冷や汗をかいた。アランおじさんは、駅の外にたむろしていた目つきの悪いおじさんたちとマレー語でなにやら交渉すると、そのうちのひとりがすぐにクルマを出してくれた。車に乗ったままだと、イミグレーションはあっという間に通過できるらしい。安心したのも束の間、今度はタイ側のイミグレーションに行くという。こちらは車から降りて並ぶ必要があり、それほど人数は並んでいなかったのに、またものすごく時間がかかった。西日が傾き始め、列車の発車時刻までに戻れるのか気が気でないわたしをよそに、アランおじさんたちは悠々とたばこを吸っている。

 

 結局、このイミグレーション騒動でも2時間近くかかり、駅に着いたのは発車10分前だった。しかし、さっきまでいた駅と違う。目つきの悪いおじさんはとっくに走り去ったし、アランおじさんは平然としている。

 「ここはパダン・バサール駅でいいんだよね?」

 「そう。ここは同じパダン・バサール駅だけど、タイ側のパダン・バサール駅だ」

 駅には10月になくなったタイ国王の大きな写真と献花台が設けられていた。間に合った、という実感がようやくわいてきて、目つきの悪いおじさんにきちんとお礼を言っていないことに気がついた。おじさんはもう、行ってしまった。彼に言えなかった分、アランおじさんに言おう。アランおじさんはマレーシアの子どもたちのテニスコーチで、バンコクへは自身が出場する大会のために行くそうだ。

 

 寝台列車がタイのパダン・バサール駅へ着く。そういえば、あのイスラムの男性は無事、この列車に乗れたんだろうか。誰か、彼を手助けしてくれる人はいたんだろうか。目つきの悪いおじさんやアランおじさんの助けがなければ、わたしはこの列車に乗れなかった。のろのろ進み始めた列車の窓から眺める夕陽は、涙がにじむほど美しかった。

 

眠るアジア -その2

 当初はシンガポールへ行くつもりだったが、クアラ・ルンプル行きの方が安かったことと、どのみちシンガポール行きのチケットはクアラ・ルンプルで乗り換えが必要だったこともあって、始めからクアラ・ルンプルに行ってしまうことにした。

 マレーシアに来た目的はひとつ。マレー鉄道に乗ってタイへ国境を越えることだ。調べてみると、クアラ・ルンプルからタイのバンコクまで一本で行く電車はすでに無く、少なくとも2、3回の乗り換えは必要なようだった。たった1年前の情報でももはや古く、交通事情は刻一刻と変化している。翌朝にマレーシア北部のバタワースまで行くチケットを買い、ペナン島に一泊することを決めると、街を見てまわった。中華街やマレーシア最大のヒンドゥー教の寺院など手近に見ることのできる場所を巡り、屋台で晩ご飯を済ませ、缶ビールとおつまみを買って宿に戻ってくると、ロビーで何人かがテレビを見ていた。

 いよいよ明日はアメリカ大統領選挙の投票日。

 神妙とも憂鬱ともとれるような表情でテレビを見つめる彼らの横で、自分が思っていたよりも、ずっとずっと多くの人たちがこの選挙の行方を固唾を呑んで見守っていることを感じた瞬間だった。

 

 クアラ・ルンプルのターミナル駅であるKLセントラルからバタワース駅までの車両は新幹線並みにきれいで、天井からはモニターが吊り下がっており、アニメ映画『ベイマックス』が繰り返し放映されていた。古く懐かしい電車旅を期待していた分がっかりもしたが、その代わり持ってきていた本をかなり読み進めることができた。

 バタワース駅で降り、フェリーでペナン島に渡ったのが昼過ぎ頃。宿で荷をほどき、町歩きを初めて割とすぐだったと思う。とある道で地元の男の子と目が合った。通り過ぎたあとも、何となく視線を感じる。そのままモスクを参拝して出てきたところをさっきの男の子に、カメラのシャッターを押してもらえませんかと話しかけられた。ここらの人のようだし、大して撮影スポットらしくない背景で写真を撮ることを不思議に思いつつ、快くシャッターを押して、スマホを返して道路へ出た時、「どこから来たの?ペナンは初めて?」と前を歩いていた彼が振り返って話しかけてきた。ここでようやくさっきの写真は話しかける口実だったことに気付く。デニーと名乗る23歳の彼はペナンに住んでいて、今日は仕事が休みなので出かけようとしていたらしい。日本から来たこと、ペナンは初めてであることを伝えると、僕が案内してあげると言う。ペナンはこの日しか滞在しないし、地元の人に案内してもらったほうが効率的に、また思わぬディープなペナンの顔を知ることができるかもしれないと考えたわたしは案内をお願いすることにした。

 しかし、それは大いなる間違いであった。間違いというより、人選ミスだった。

 デニーは始めこそペナン島の撮影スポットや町の見どころを紹介してくれたものの、聞いてくることは男性関係のことばかりで、次第にボディタッチが多くなってくる始末。日本のアニメが好きで、日本人の女の子と仲良くなりたいと思っていたと話すと、今日だけ僕の彼女になってくれないかと尋ねるので、アニメの女の子と現実の女の子は違うし、たとえ一日だけだとしてもわたしは君の彼女にはなれないと伝えると、めげるかと思いきや、彼女になってもらうのは諦めるからキスしてくれと言い出した。彼の不屈の精神には感心しながらも、ひとりで町をまわっていた方がよっぽど楽しかったと後悔した。

 その後も、ありとあらゆるお願いを断って、しぶしぶ日本の歌を歌った時にわたしが選んだのは、ザ・フォーク・クルセダーズの『悲しくてやりきれない』だった。

 

 とはいえ、彼が多少なりとも案内してくれたことは事実だし、私たちは求めているものが違うだけで、善意でやってくれたことに怒るのは筋違いだ。デニーとは、夕飯へ一緒に行くまでの間しばし解散となったが、まったく気分が乗らない。宿近くの酒屋では、地元の人に交じってバックパッカーたちが店で買ったお酒を外の椅子に座って呑んでいる。気を紛らわそうと、それに習ってちびちび缶ビールを飲んでいるうちに、休暇で故郷ペナンに帰ってきている現地の人と話が弾んだ。結局、酒屋の前で会ったラッシュも含めた3人で夕飯を食べに行ったが、2人で食事をするつもりだったらしいデニーは始終不機嫌で、ラッシュやわたしが話を振るもののまったく会話が弾まずに、淀んだ空気のままお開きとなった。

 

 わたしはどうするべきだったんだろう。

 町を案内してくれたお礼としてデニーのその日限りの恋人になれば良かったのか。愛情は決してそんなものじゃないと、わたしは思う。わたしはただ、みんなで楽しくごはんが食べたかった。だから、バックパッカーや地元の人と肩を並べ、ひとつ酒屋の前で呑みながら他愛ない世間話をしている時が一番楽しかった。

 旅の中でわたしが求めているのはロマンスじゃない、友情だ。そのことがはっきりと分かった。

 

 翌朝、対岸のペナン島に苦い気持ちを残しながら、タイとの国境へ向かうべくバタワース駅をあとにした。

 

 

眠るアジア -その1

 1年2ヶ月に及ぶ長尺の仕事が10月末に終わった。それと同時に、わたしは無職になった。フリーランスで仕事をするということは、次の仕事を受けなければ無職も同然だ。

 過去に一緒に仕事をした監督から、また一緒にやらないかと誘ってもらった。マネジメントしてくれている人を通さずに直接誘ってもらうのは初めてだったので、ものすごく嬉しかったし、その話自体とても魅力的だった。その監督とは絶対にまた仕事がしたいと思っていたし、またいつでもその組で仕事ができるように、トレーニングとして密かに続けていた事柄もあった。それほどまでに渇望していた監督からのお誘いを、断った。そうまでして考えなくてはならないことがあった。そして、11月2日、私は日本を出国した。

 

 元々、この仕事が終わったらブルネイで働いている妹に会いに行く予定だったので、ブルネイ行きの航空券は早い段階から買っていたのだが、ブルネイの前にトランジットで香港に1泊すること以外、何も決めていなかった。どうせ時間もあるのだからと、他のアジアの国々もまわってみることにしたものの、わたしはあまり海外に詳しくないので、学生時代から研究対象の地域としてしょっちゅう東南アジアに行っていた妹に相談してから決めた方がいいだろうと思い、帰りの航空券も買わずに飛び立った。しかし、そのせいで成田空港では「ブルネイに入国できないかもしれない」と言われ、ブルネイに入国できなくても自己責任で当社は預かり知らぬことを承知します、という誓約書にサインする羽目になってしまった。本当に入国できなかったらどうするんだろうと、若干不安になっているわたしを、重慶大廈の安宿で同室になったフランス人のサムは親身になって話を聞いてくれたばかりか、もしもの時に相談すべき窓口の連絡先をいくつも調べてメモしてくれた。さんざん調べたものの、まずは大使館に勤める妹に相談すればよいのではということに落ち着き、聞いたところ大丈夫だと思うと言われ、実際にブルネイに着いた時もあっけないほど簡単に入国できてしまったのだった。

 

 これから先、サムを始めとして行く先々で、わたしはたくさんの人に助けてもらうことになる。1年2ヶ月ぶりのMidnight Local、各駅停車の旅が始まった。

 

 ブルネイでの数日間は、愉快そのものだった。泊まっているのは広々とした妹の家だし、移動は全部妹が車を運転してくれるし、何から何まで妹頼みだった。友だちも同じタイミングで来ていたので、3人で観光名所をまわったり、だらだらテレビを見たり、妹の職場の人も交えて奥地へジャングルクルーズに行ったりもした。最後の一日、友だちも一日前に帰国してしまい、妹も出勤したあと、ひとりで街をまわった時も楽しくないことはなかったが、翌日からのことがひどく憂鬱になった。明日から言葉にも不自由するほとんど知らない国々を、たったひとりで旅するのだ。行きたくないと思った。このままブルネイにいて、ごはんをつくって妹の帰りを待って、楽しく過ごしていたいと思った。それなのに、何故、わたしは旅に出るのだろう。誰に頼まれたわけでもないのに。理由は、本当にわたしにも分からなかった。うんざりする気持ちを抱えたまま、発着ゲートで妹に手を振り、次なる目的地、マレーシアはクアラ・ルンプルへと飛んだ。

 

 

夏休み子ども科学電話相談

『ドミトリーともきんす』を読み終えた翌朝、

ラジオから夏休み子ども科学電話相談が流れてきた。

今朝いちばん興味を惹かれたのは、

魚の年齢を知るには鱗を紅しょうがの汁に浸すとよいというもの。

自然科学に心躍る季節がやってきた。

 

毎年、この放送を楽しみにしている。

電話口に現れるのは、自分の身の回りにあふれているとある不思議に気づいた子どもたち。

そしてその不思議について答えてくれるのは、専門知識を持ったその道の先生たち。

子どもたちの質問はいつもまっすぐで、それは時に先生たちを唸らせ、困らせることがしょっちゅうある。

けれど、電話口を通して問いかけられる「なんで?」に応える先生たちも、子どもたちと同じくらいまっすぐで、一生懸命説明するあまり子どもたちには分からない難しい言葉まで出てくることもしょっちゅうある。

そういったときに司会を務めるアナウンサーが先生の言葉をかみ砕き、子供たちにそっとバトンを渡してくれている。

直接、目の前でお話すれば一瞬で解決してしまうような受け答えの時もある。

たとえば今朝も「おうちにある水槽はどれくらいの大きさなのかな?」と聞かれた子どもが、しばらく迷った挙句「中くらい」と答えた。

これだって目の前にいれば手を広げて「このくらいだよ」と言えば、すぐに分かることなのだが、それができないのでラジオを聴いているこちらは思わずぷっと吹き出しながら、小学一年生の男の子が中くらいというのだからきっとこれくらいかなーとか、いろいろ想像を巡らせながら聞き入るのだ。

ラジオの向こうで繰り広げられる不思議の数々には、すでに知っていることもあれば疑問にすら思ったことのなかったものもたくさんある。

しかし、そのひとつひとつが、先生の言葉を通すと新しい驚きを与えてくれる。

子どもは多感だから、大人よりもたくさんの不思議について気づくことができる。

いいや、そうじゃないと思う。

すでに、ここに子どもたちと同じくらい身の回りの不思議に気づいて、それについて知りたいと好奇心を持ち続けた先生たちがいる。

わたしたちは普段、もっと他の事に気を取られてしまっているだけで、不思議について気づくことのできる感性も、好奇心も、遠い昔に置いてきてしまったわけではない。

 

子どもたちには夏休みという「なんで?」を解決するためのたくさんの時間がある。

大人たちにはその時間はないけれど、代わりに「なんで?」を解決するための言葉と探す能力がある。

だから、子どもたちも大人たちも同じだ。

 

ともきんすに出てきた四人の学者、朝永振一郎牧野富太郎中谷宇吉郎湯川秀樹も、自分の気づいた不思議について問いかけ続けた大人だった。

自宅と職場を往復するだけの道すがらにも、きっとたくさんの不思議が落ちている。

明日もラジオを聴きながら、わたしの歩く道にも不思議が落ちていないか、目を凝らしてみることにする。

きっと、スマートフォンの画面を通さなくたって、それぞれの道すがらに不思議はいくらでも落ちている。

 

キャンティの夜

数日前に、またひとつ歳を重ねた。

その日は仕事が遅くまであり、今日が誕生日だととくに誰にも告げることなく淡々と、

とはいえ自分の誕生日だということにうきうきしながら仕事をしていたのだが、

時計の針がまもなく0時を越えようという段になって、

やっぱり誰かに伝えたいという気になった。

手をたたいて祝福してもらうような歳でもないし、

まして何かプレゼントしてもらおうなんて思ってもいなかったが、

「ひとつ歳を重ねた」という幸せをここにいる人にも伝えたかった。

 

モニターの前では、所作指導の先生がソファーに腰かけて

まだスタジオの中で延々続いている収録の様子を眺めていた。

 

「先生、あの…」と言いかけた時、収録本番のベルが鳴って、

先生はこちらを振り向いていたが、なんとなく気が引けて私は口をつぐんだ。

収録本番が終わり、また次のカットの準備に入ったときに、

先生のほうから「なんですか?」と声をかけて下さった。

それで、「実は今日、おかげさまでひとつ歳が増えました」と話した。

先生はたいそう喜んでくださって、おめでとうと言ってくださった。

 

その日のスタジオ収録が終わったのは、0時半も過ぎたころ。

いつもの通り、先生のお帰りのタクシーチケットを準備して渡すと、

先生は徐に「じゃあ、これからキャンティで一杯どうですか」と言った。

この時間からお酒を飲むことに驚きはなかったが、先生は御年73なのだ。

朝からたった今まで仕事をして、この時間から食事に行こうという先生は

本当に見習おうと思っても見習えないほどお元気なのである。

 

結局、職場の同僚3人を加えた5人でキャンティへと向かった。

タクシーにぎゅうぎゅう詰めになって膝を抱えながら向かう車中はとても幸せだった。

芸能の仕事をしているわりに、この世界について明るくない私は、

もちろんキャンティなんて知らなかったのだが、

いつも食堂でご一緒している先生の口から出るキャンティの名前には

それはそれは華やかな雰囲気が漂っていた。

キャンティは、まるでロートレックの絵のようだった。

次から次へとワゴンで運ばれてくる前菜の数々は、

目にもおいしい素敵なものばかりで、それをまた静かに説明してくれる店員さんの姿も

ひとつの絵画のように完成されており、

先輩がキャンティがいかに憧れの社交場だったかを話せば話すほど、

場違いでちぐはぐな恰好をしているわたしたちが可笑しくなってくるのだった。

前菜、ピザ、スープ、パスタ3種、そしてデザートを食べ終えた頃には、

時計はすでに3時半をさしていた。

そんな時間になぜこれだけの量を平らげることができたのか不思議だし、

このお勘定がいったいいくらだったのか皆目見当もつかない。

すべては先生の「財布を出すな。そんなつもりで誘ったんじゃあない」

という江戸っ子口調の一言で打ち切られてしまった。

 

お金持ちになりたいと思ったことはあまりないけれど、

先生を見ているとお金持ちというのは格好いいと思う。

先生のお金の使い方は、見ていてとても気持ちがいい。

食事に行きましょうと誘って、そして有無を言わせず全部自分で払ってしまう。

おごってもらえて嬉しいという気持ちはあまり感じない。

それよりも圧倒的に、いつか自分もこんな気持ちのいい人になりたいと思う。

 

最初から最後まで、ひたすら仕事の話しかしなかった。

職場の人たちと飲みに行くと、ほとんど仕事を話しか出てこない。

そしてそれがまたとても心地いい。

愛とか、安っぽい言い方であんまり好きじゃないけれど、

仕事終わりの0時半から明け方まで祝杯をあげて仕事の話ばっかりするこの人たちは

やっぱり愛にあふれている。

歳を重ねることは素敵なことだし、それに付き合ってくれる人たちもとても素敵だ。

 

お祝いを伝えてくれた皆さま、どうもありがとう。

おかげさまで、今年も素敵な歳になりそうです。

 

 

 

情けない話

年に数回風邪をひくのだけれども、病気の器が相当小さいのか、

風邪以上に大きな病気はほとんどしたことがない。

おととしに胃腸炎になったほかは、記憶が正しければインフルエンザもない。

そうしてまた優等生らしく、きっちり週末に罹って週末で回復するのが常だった。

 

ところが今回はその例に漏れて、一週間も自宅療養する羽目になってしまった。

とにかく布団の中にずうっといるので、寝ることにも飽きたしまったく眠くない。

腹痛のあまりごはんを食べることができないので、ポカリだけちびちびと飲んでいる。

病院へ行った時には医者から入院という話もあったのだが、

どうしてもしなきゃならないというわけではないということだったし、

それくらいで入院するのもなんだかやわと思われそうだと思って、

じゃあ大丈夫ですと言うなり帰ってきてしまった。

 

しかし帰ってきてみると、水分だけで生活するということに何の知識もなく、

何を飲んでいいのかもよくわからないし、

仕事の仲間たちにも迷惑をかけてしまったという自責の念にも駆られるし、

開き直って休みを満喫しようなんて気には到底なれない。

そんなことを考えているとどんどんと気鬱になり、めまいや吐き気までしてくる。

もういっそ入院してしまったほうが幾分かいいと思い改めて病院に行ったのだが、

入院するほどの数値ではなくなってきてますね、と言われてしまうと

いいや何が何でも入院させてくれなんて言うのもおかしいので、

結局は、ハイそうですかと言ってすごすご腹をさすりながら帰るほかなかった。

 

結果、いまも痛い腹を抱えながら自宅療養とやらをむさぼっているわけだが、

病院からの帰り道、こんな時に誰を頼っていいのかわからなくなって泣いてしまった。

友達だって家族だって、こんな平日の昼間は働いている。

それに何を解決してほしいのか明白なわけでもない。

ただ、誰かの声を聴きたいと思ったけれど、誰の声を聴きたいのか分からなかった。

何か困ったことがあったら言ってね、と言ってくれた人が

これまでもいたような気がしたけど、それはいったい誰だったんだっけ。

 

人に頼れない。

自らの欠点であることは分かっていて、克服しなくてはと思い続け、

いまだ何も改善されていない最大の問題だった。

いつも逆だったらと考える。

もし誰かが、申し訳ない迷惑かけたくないと言ってひとりで涙していたら、

申し訳なくていいし、迷惑もかけてくれていいから話してほしい、

解決できないかもしれないけど、ただとなりで話を聞きたいと思う。

そうありたいと思うなら、自分も誰かに身をゆだねられる人でなければいけない。

そうやって、前に誰かとなりで話した人いなかったっけ。

 

それで、通話ボタンを押してみた。

どう話し始めていいのか分からない、どうか留守電になってくれと願った。

もしもし?と声が聞こえた。

申し訳ないと思った。仕事中に迷惑かけたと思った。

でも、やっと少し自らの欠点に克服の文字が垣間見えた。

 

情けない話、ちょっと体が弱ったくらいでこんなことになっている。

情けない話、わたしはいつでも強がっている。

 

 

 

 

二万二千西域記 ーその4

翌朝は青天井の下、昨日生き残ったリンゴを丸かじりした。

最上階である三階は吹き抜けを挟んで四つの部屋が対面していて、

部屋というよりは屋上に長屋がふたつ並んでいるような感じで、

吹き抜けの手すりにはバックパッカーたちの衣服がずらりとぶら下がっていた。

ユースホステルのパンフレットには「ランドリーサービス有」と明記してあったが、

よくよく見ると吹き抜けの奥では盥に水を張って服を手洗いしているおばさんがいる。

いつもは洗濯機なのか、大体は洗濯機で洗ってそれだけたまたま手洗いだったのか定かではないが、

「ランドリーサービス」という言葉とは程遠いこのサービスは、

変わりに洗濯をしてくれるだけユースホステルにしては上出来と言うべきか。

わたしは洗面台でぴゃっぴゃと洗って自分のベッド脇に吊るしていたので大差なかったと思う。

この長屋の宿泊者たちは明らかにバックパッカーではなかった。

中国人の、しかもどちらかというとここに住んでいるような雰囲気で、

おそらくはここの清掃や洗濯をしている従業員ではないだろうか。中には親子もいた。

朝食も済んで荷物もまとめたところで、チンとブリーにお別れを言いに二階の八人部屋をノックする。

チンが寂しがるのは分かっていたが、より別れを惜しんでいたのは意外にもブリーの方で、

めそめそするような声を出し一言「寂しい」と言った。

てっきりブリーはチンと二人の方が楽しいに違いないと思っていたのに、

思いのほかわたしといることをブリーは楽しんでいたということをこの時初めて知った。

もっとこの子と話をすればよかった。

いつか日本に来てね、待ってるから。

まだベッドの中でぐずっているブリーの頬を撫でて、二人に心から感謝を伝え宿を後にした。



もしかしたら、という希望をこめて銀行でクレジットカードでお金が引き出せないか試してみた。

前日にも何度かチャレンジしたが無理だったのでほとんど期待はしていなかったが、

銀行員立ち会いの元でやったら何か違うかもと思ったが、やはり駄目なものは駄目だった。

すでに残金百五〇元、残り三日間を一日約九〇〇円で生活しなくてはならない。

しかしこの危機的状況下にあって、西安滞在中で一番わくわくしたのがこの時。

旅は成り行き、風まかせ。

この瞬間、わたしは誰よりも自由だった。



この西安という街をじっくり見て回ろう、自分のこの脚で。

そう決めたら行くべきところはただひとつ、街を囲む城壁だ。

入場料は大人ひとり五四元で一日に使える限度額を超えていたが、これを見ずして何を見るというのだ。 

城壁は一周十三.七㌔あり、東京で例えると東京駅から阿佐ヶ谷駅と同じ距離。

難なく歩けるだろうと高を括っていたがこれが意外と難儀で、

これまで曇り続きだったのに今日に限ってピーカン、

歩けど歩けど一向に近づいてこない城壁の曲がり角を遠くに眺めるたび、

背負っている荷物が肩にめりめりと食い込んでくるといった具合であった。

それでも、城壁沿いに西安の街を眺めるのは非常に面白かった。

壁の外側は大きなビルディングが建ち並び、整備された大通りが続いているのに対し、

内側はいまにも崩れ落ちそうな家屋があったりゴミが惨然と散っている道路があったり。

城壁内も西側はわりと拓けているようだったが、東側は昔の風景を残しているところが多く、

エリアによって様々な西安の顔を見ることができた。

結局、城壁を一周するのに三時間以上かかりそれだけで半日は優に過ぎてしまった。



城壁を歩き終えてしまうと、残りの日々を閑古鳥の鳴く財布でどう過ごすか考えなくてはならなかった。

一日を六四〇円で過ごすのを決して無理だとは思わなかったが宿代も含むとなると話は別で、

仮に安いユースホステルを見つけたにしてもデポジットを言い渡されたら元も子もない。

是が非でもクレジットカードで支払いができるホテルに泊まる必要がある。

西安にはそれこそ星の数ほどホテルがあったが、どこがクレジット決済ができるかなど分からない。

しかしエアポートバスが停まるホテルなら絶対に大丈夫だと踏んで、

まだ歩いたことのないエリアにある陇海大酒店を目指した。

十三.七㌔歩いたあとのホテルまでの道のりは言うまでもなく、きつかった。

実を言うとここでもデポジット二〇〇元、しかもキャッシュオンリーを言い渡されたのだが、

観念して財布の中身を見せるとフロント係は苦笑いで仕方なしに五〇元札を引き抜いた。

そこからの日々は、旅行者というよりもほとんど西安の住人になったように過ごした。

公園へ行って雨に降られては近所の人たちと一緒になって小一時間雨宿りしたり、

市場へ行って前の人の見よう見まねで量り売りのおやつを買ってみたり。

列に並んでお寺の炊き出しにお世話になったこともあった。

一皿三元で山盛り食べられる総菜屋も見つけたし、品物の金額もだいぶ聞き取れるようになった。

わたしは自分のことを貧乏だと思ったことはないし実際に貧乏ではないのだが、

いつも所持しているお金の額が少ないので、お金に困る状況に陥ることがままある。

よくよく考えてみたら三泊四日の香港旅行でさえ三万円も持って行ったのに、

四泊五日の西安でなぜ二万二千円で足りると思ったのか今になってはよく分からない。

しかし、お金に困って遠くへ行けなくなった最後の三日間こそが一番西安を覗き見れたと思っている。

結局、わずかながら財布にお金を残したまま西安を発つことができた。

エアポートバスが大通りを猛スピードで駆けてゆき、

風にはためく城壁の深紅の旗は次第に小さくなっていった。



日本へ帰ってきて空港からのバスの中で思う。

いつか、つぎは電車で、またあの街を訪れたい。

都心へ近づけば近づくほど、それとは反対に心は新たな旅へと惹かれていった、

と言いたいところだが、

実際のところは翌々日から始まる新しい班での仕事が楽しみで仕方がなくて、

見知らぬ街を放浪しているときと同じくらい、仕事をしているときも楽しいのだ。

だから、やっぱりわたしの旅は各駅停車がいい。

そう感じた二万二千西域の旅なのであった。