火の鳥信仰

先日、「神様って信じてる?」と聞かれましたので
「かみさまは信じてない。けど人間を超越した存在は信じてる」と言いました
カタチのあるものとは思ってないけど、つまり偶像崇拝禁止?
なにか光の固まりというか力の固まりというか、そんな風に認識しています


その光は命の固まりって感じで常に新しい魂が出たり入ったり、
けっしてとどまることのない力みたいなもので、
手塚治虫の「火の鳥」を読んだ時ストーンと落ちたんです あ、これか
私の命は私ひとりのものじゃなくて、っていうのは「皆に支えられてるから」
って意味でもなくて、
私が生きてる間はそれは私の人生そのものなんだけど、
私の人生の始まりと終わりはそれ単体でなくて、
おおきな力のつながりのほんの一部、長ーい帯の中の一端
1メートル物差しの45センチから50センチみたいな感じ
だから自分の前世、来世って問題でもなくて、
いま生きてる私は私で、誰かの生まれ変わりでもないし、私が死んでから誰かに生まれ変わることもなくて、私が死んだら私は終わりだけど
でも私のこの命はおおきな生命体の一部なんですよ
なんか分かりにくいかな?


結局、何が言いたいかっていうと、


お墓に入りたくない


ってことなんです


お墓に入るってことは、骨壺に入るってことですよね
骨壺に入ったら私の骨は溶けないですよね
外界からシャットアウトされた暗ーい場所でじめじめしてなきゃならない
還っていけないんですよ
私は自分も還っていきたい
私の骨が分解されて、土に溶け込んで、草になって、小鳥が食べて、獣が食べて、
と消化されていきたい、還っていきたい


でも、それは将来の私の家族もしくは今の家族が許さないかもしれない
お墓に入ってほしいと言うかもしれない
それは彼らのことも尊重したいので、一部は入ってもいいと思う
でも足だけは入りたくない足だけは外に出しておいてほしい


私は死後の世界も信じない 信じたくない
永遠なんて怖すぎる 永遠に幸福な極楽浄土なんて全く魅力的じゃない
私は終わりのあるものが好きです
終わりがあるから頑張れるのに、終わりがなかったら頑張れない
仏教では生きることは苦しいことだから輪廻転生は実は良くないこと
最高の形は永遠の幸福を約束される極楽浄土へ行くこと
みんなそこへ行きたいと願うんですね
でも私は行きたくないし、信じたくない
そう考えると、私は仏教徒じゃない、
火の鳥信仰、火の鳥教徒なんだなあ


去年、あるホームページのロゴ製作を頼まれて引き受けたものの、
「締め切りいつですか?」と聞いたら
「いつでもいいよ」と言われ、途端にやる気をなくして
そのまますぅーっと行かなくなってしまった映像制作会社があった
頼まれた仕事を途中で放り出してしまったのは
今まで生きてきた中での一番の汚点だと思う、
終わりがないのが苦手とはいえ、