見えない十人の支持者

昨日、自主映画をやっている人と、ものづくりについて5時間くらい話し込んだ。


「とにかくこいつらを全員黙らせたい」と、
その人はとある映画の専門学校のチラシを片手に、つくろうとしている映画の話を熱っぽく語った。


その姿はとてもまぶしかった。
ただ、粋がっているだけのことばではなかった。


絶対的に自信を持っているようだった。


しかし、
それでも「これで大コケしたら、どうするんだろう」とも言った。
もしそうなったらもうなにも、なにひとつ自分には残らない、という風だった。


わたしは、先日読んだばかりの和田誠の本に出てくる言葉を思い出した。


「君の仕事が誰かに痛烈に批判されたとしても、それでしょげることはない。
ひとりに酷評されたら、どこかでひとり、君を絶賛している人がいるはずだ。
十人に酷評されたら、褒める人がどこかに必ず十人いる。
その代わり、十人に褒められたら、どこかで十人がけなしていると思った方がいいよ。」


きっと、そうなのだろう。
どんなにみんなにボロクソに言われて、箸にも棒にも引っかからなかったとしても、
きっと見えないどこかで、誰かが拍手喝采し、その作品は誰かの心に残ってゆく。
しかし、そのまた逆も然りなのだ。
みんなに大絶賛されて、ものすごくチヤホヤされたとしても、
見えないどこかで、誰かにこっぴどくけなされているのだ。


だから、どんなにうまくいっていない状況の中でも、
見えない誰かの存在を支えに、立っていることができる。
そして、どんなにうまくいっている状況の中でも、
見えない誰かの存在をバネに、また立っていることができるのだろう。


最近、母親に「いまのお前なんて誰も必要としていない」と言われた。
確かに、事実そうなのかもしれない。
しかし、そうだとしてもわたしは目に見えない、わたしを必要としてくれる人の存在を信じたい。
誰かが、こんな自分さえも肯定し、認めてくれていると信じたい。


しかし、私が自信を持って立っていられるようになって、
周りからも認めてもらえるようになったときは、忘れないでおきたい。
誰かが、見えないどこかで
「あんなやつはまだまだだ。まったく必要となんてしていない」
と言っていることを。