帰り来ぬ本

最近、ひさしぶりにあの本でも読もうかなと本棚を探して、

人に貸していたことに気付く、ということがよくある。

貸したのは、もう何年も前だったりするのだが、

案外だれに貸したかちゃんと覚えている。

それは、その本の持つイメージと貸した人のイメージに重なるものがあったり、

この人にこそ読んでほしいと思って貸した本だったりするからなのだと思う。

そして、それらの本はもう返ってこなくていいと思っている。

数年前だったら、読みたいから返してくれと言ったろうけども、

いまは、その人が持っていてくれたらいいと思う。



なにかとても魅力を感じたものを、ひとに勧めるとき、

ことばにするとどうしても魅力が半減してしまう。

たしかに胸がときめいたはずなのに、口からことばになって出ると、

ただの楽しかったわたしの思い出話になってしまう。

どうしたら、自分の感じた魅力がそのままに伝わるのか。

それは、聞いているひとの興味のアンテナも同じ方向に向いているときだろう。

しかし、それはきわめて稀なこと。

本当にそのひとの中に、ときめきの花が開くのは、

そのひとが自分自身で噛み砕いたときだ。

だから、そのときが来るまで持っていてほしい。

もしかしたら、ずっと来ないのかもしれないけれど、それならそれでもいい。



あの人にこの本を読んでほしい、と考える時間はとても楽しい。

だれかにこのときめきを伝えたいと思う時間も楽しい。

そして、そんな思いを馳せることのできる友人がいる、ということが嬉しい。



いま読んでいる本が読み終わったら、ひさしぶりにあの本が読みたい。

でもまだ読んでいない本は、本棚に山ほどある。

ことばの海に体をあずけ夢見心地で頁をめくる夜は、今日もゆっくり、ゆっくりと更けてゆく―