二万二千西域記 ーその2
真上のベッドの客がかなり遅い時間に出入りしていたことと、
かなり豪快ないびきをかいていたこともあって完全に寝不足のまま西安の二日目は始まった。
駅までバスに乗ったことで、ようやくバスが一律一元であることが分かった。
これでこの先は不安なくバスに乗ることができる。
西安駅についてからまずブリーが始めたのは、どこで華山行きのチケットが買えるかの聞き込みだった。
何人かに聞くうち、ひとりのおじさんが旅行代理店のおばさんを捕まえてきてくれたのだが、
どうやらブリーとおばさんの交渉は難航しているようだった。
見たところによると、少しでも予算を抑えたい我々とおばさんの値段交渉になっているもよう。
しかし結局はおばさんに強引に押し切られ、せっつかれながら代理店へついて行くことになった。
この時点で、わたしはほぼ中国元を持っていなかった。
華山行きの代金もブリーが貸してくれたおかげで華山へ登れることになったのだが、
三月に行った香港と同じ気分で来てしまったのがそもそも間違いだった。
香港ではあれほどたくさんあった換金屋がまったくなく、
西安に来た時点で、財布の中には五年前に北京を訪れた時に残った四百元と日本円が少しあるだけだった。
しかし、それも二日分の宿代とチンからサンダルで登るのはさすがに危険だと言われて
昨晩ショッピングモールで買った運動靴に消えていて、いま財布の中には百元も残っていなかった。
チンとブリーは朝食を普段からあまり食べないのか、バスを待っている間も特に何も食べようとしない。
起床してからすでに一時間半以上経っており、お腹は空いていたが食堂に行こうとも切り出せず、
食事に困ることもあろうかとコッペパンを頂戴しておいてヨカッタ。
西安から華山は一二〇㌔以上離れており、途中トイレ休憩も入れて三時間ほどかかって、
おしりの皮が薄いのか長らく一所に座っていられないわたしにはかなりの苦痛だった。
バスの中は家族連れがほとんどで外国人観光客はわたし以外におらず、
バスガイドがぶっきらぼうにまくしたてるのをときたまチンが英訳してくれる。
寝不足と空腹と座っていることの苦痛にどんどんと気力を奪われ、
これは到底山になど登れる体調ではないと思っていたが、
やはり山は性に合っているようで実際に華山に登り始めるとみるみるうちに息を吹き返し、
さっきまでぐったりしていたのを二人が訝しむくらい溌剌としていた。
二千メートル級の山だというのでさぞみんな重装備かと思いきや軽装備の人ばかりで、
その家族連れの多さと軽装のほどからして、みな高尾山に登るくらいの気持ちなのかもしれない。
クロックスなんか履いている人もいて、何のためになけなしの百元札をつかって運動靴を買ったんだか
と嘆いていたが、これはサンダルでは無理だったなと思う難所がひとつだけあった。
それは断崖絶壁を命綱をつけて渡って行く「長空桟道」と呼ばれる箇所で、
まあこの道は通らなくても本当は先に進めるけれど、ここまできてここを渡らずにいられるかと思い
三〇元払ってわざわざ挑んだのだが、そのスリル満点さは画像でも検索していただけば一目瞭然である。
しかし意外にも渡ってみると恐くなかった。
おそらくあまりの雄大な景色に恐怖心を忘れてしまったか、
行き来する登山客の呑気さに恐さを感じずに済んだかのどちらかだろう。
驚いたのは、その幅五〇センチにも満たない木の板の上で命綱をつけた人が行き交うことだった。
なぜわざわざこんな狭いところで行く人戻る人が同時に渡るのかとはじめは信じられない思いだったが、
なんだか途中からその危険さえも楽しいと思えてくる。
しかし華山が険しい山であることに変わりはなく道々の標識には
「歩くときは景色を見ず、景色を見るときは歩かず」となんとも恐ろしいことが日本語で書いてあった。
団体バスで来たから団体行動するのかと思いきや、全員がまったくの単独行動だったので
同じバスに乗ってきた人たちには、帰りのバスに乗るまでついぞ出会うことがなかった。
途中、長空桟道で武漢から来た男の子と友達になったり、
ロープウェイに乗り合わせた若者たちとおしゃべりしたり、
中国の若者たちは誰とでもすぐに仲良くなれて、しかも別れ際が潔い。
旅先で誰かと行動を共にするなんてほとんど初めてだったけれど、これも悪くないなと思い始めていた。
二一時頃に出発したバスは、帰りは一度も止まること無くものすごい速さで高速を飛ばし、
こちらがおちおち寝ていられないほどクラクションを鳴らしまくって二三時過ぎに西安に帰ってきた。
夕食もとらずにそのままユースホステルへと帰る。
西安へ来てからまともな食事を取ったのは、この日の昼くらいだった。
あとは前の晩に羊串と、今朝のコッペパン、帰りのバスでつまんだ干牛肉。
食事らしい食事がしたいなあ。
しかし明日まずするべきは換金。
この時点で財布の中身は五角。日本円にしてわずか十円だった。