二万二千西域記 ーその3

翌朝、なにはともあれと銀行へすっ飛んでいったが、銀行はまだ開いていなかった。

ロビーには入れたので座っていると最初にやってきた銀行員のおばさんに怪訝な顔をされ、

換金しにきたのだ、何時に開くのかと尋ねると九時だという。

携帯画面をみるとちょうど八時五〇分を回ったところだったので、

それならここで待つと言うとさらに怪訝な顔をするおばちゃん。

来る銀行員、来る銀行員みなに怪訝な顔をされるのでなぜだろうと考えていたが、

携帯に表示されているのは日本時間で時差があることをすっかり忘れていた。

銀行の時計を見たらまだ八時前だった。

それなら外でもぶらつこうと街へ出る。七時台の西安はすでに活気づいていた。



あっちへこっちへ路地を歩くうちに、やっと大好きな光景に出会う。

道の両端に燦然と広がる露店の数々―、生肉、野菜、果物、鮮魚、野菜、果物、果物…

生きたままの魚を道路に投げつけ、そのあと鉈でまっぷたつ。

肉も容器なんかなしで、大小むき出しに並んでいる。

店数が一番多かったのは、桃、ぶどう、それからくるみ。

くるみは青い実のまま、果肉をナイフで削ぎ落としながら売っている店も多くあった。

前回うっかり財布の中身は五角と書いてしまったのだが、この時点ではまだ五元残っていた。

その五元で饅頭を食べ豆乳を飲み、肉まんとりんごをひとつ買った。

全部食べてしまうつもりでいたが、また食事に困ることがこの先あるのではという危機感から

肉まんとりんごは食べずに持って帰ることにする。

そうしてギリギリ五角残して、ようやく日本円を元に換金することができたのだった。



ユースホステルに戻ると、チンとブリーはようやく起きはじめたところだった。

ふたりが朝の身支度をしている間に荷造りをすすめる。

その晩、わたしは夜汽車に乗って平遥へと出発するつもりでいた。

借りたお金をブリーに返すとさっき換金したばかりだというのに財布にはもう二百元も残っておらず、

ふたりに朝食を食べに行こうと誘われ一元だって無駄にできないと思いながらも、結局その誘いを断ることはできなかった。

西安の、というよりは中国のすごいところなのかもしれないが、

歴史的価値のある建造物や施設でも入場料なしで見れるところというのが結構ある。

この日、三人で見に行った「小雁塔」も身分証明証を見せれば誰でも入ることができ、

敷地内には仏塔がいくつも並び、三階建ての広くて立派な博物館まであるのだった。

物見遊山する間もふたりはどこまでも優しかった。

チェックアウト済みだったわたしの旅行カバンを重かろうと代わりばんこに抱えてくれ、

ここのお店が美味しいのだと台湾のアイスクリームをごちそうしてくれた。

電車は夜なのだから荷物は一旦ユースホステルに置いておいてはどうかというチンの提案もあって、

わたしたちはユースホステルへ引き返すことにした。

フロントに旅行カバンと手荷物を預け、例の八人部屋へ戻ると一人の若者が昼寝をむさぼっている。

起こさないように声を潜めながらおしゃべりしていると、

若者はむっくりと起き上がりなぜ英語で話してるのかと聞く。わたしも中国人だと思っていたらしい。

中国で英語教師をしているというイギリス人のダニーにチンの好奇心は動かされ会話にわっと花が咲いたが、

そんなチンの様子を面白くなく思ったのか、本当に眠かったのか、

ブリーは疲れたと言ってひとりベッドへ潜り込んでしまった。

わたしも今夜の平遥行きの電車がいくらなのかを聞くためにフロントへ出て行った。

しかし、ここへきてなんとなく予想していたことが起こってしまった。平遥行きのチケットが買えない。

買えないというのは少し誤解があって、もちろん空席はあるし、時間的にも金銭的にも行くことはできる。

ところが行ったが最後、この西安に帰ってくることのできるお金の余裕が無かった。

こんなことで旅を諦めなくてはいけないなんて、という思いとどこか安心する思いが同時にわたしの中にあった。

本当は、電車で長時間かけて違う街へ移動することが今回一番やりたかった。

しかし前日に西安駅で見た溢れんばかりの人と、その間を回遊する警官、

そして遠慮のない客引きの目に言い知れぬ不安を感じていた。

それでもまだ、行ってしまってもどうにかなるんじゃないかという気持ちと、

本当に帰ってこれなかったらどうするという気持ちに揺れて

チケットセンターに行くべきか迷っているうちに、スコールのような雨が降り出した。

吹き抜けのフロアに驟雨が打ちつけられ、タイルがびちびちと激しく音を立てる。

回廊に張り付くようにそろりそろりと進み、

それでも平遥行きの時間と金額を書いたメモは握りしめたまま部屋へ戻った。

雨は二時間ほどで止んだ。



ダニーとチンに誘われて夕飯を食べに街へ出る。

チケットセンターにも寄ったが、すでに営業終了した後だった。

今夜発の切符を買えなかったわたしをチンは本気で心配していたが、

どのみち買ったら帰ってこれなかった切符だ。

もはや今夜は西安に留まる以外、選択肢はなかった。

おそらく中国語が少しでも話せていたら帰りの切符代が無いのも気にせず平遥へ行っていただろう。

たぶん、これでよかったんだ。

羊肉泡饃をほうばりながら、夕食の誘いにも出てこなかったブリーのことが気になっていた。

ユースホステルへ戻り、チケットセンターが閉まっていて買えなかったので今晩も泊まりたいと伝えると

フロントの子もチンと同じくらい心配してくれた。お金が無かったとは、恥ずかしくて言えなかった。

昨日までいた八人部屋は満室だったので三階の六人部屋をあてがわれ、チンはかなり残念がった。

その晩は、同室の日本語を学んでいる中国人の女の子と大雁塔の噴水ショーを見に行き、

新しい出会いに気分もだいぶまぎれたが、部屋へ戻ってふと荷物に目をやると、

手さげ袋に穴があいていて今朝買った肉まんが食い散らかされていた。

さしずめ、フロントに預けていた時に近くにいた猫かなんかに食べられたのだろう。

幸い、りんごは無事だった。



ベッドに寝っ転がりながら、これまで西安での旅を支えてくれたチンとブリーのことを考えた。

きっと明日も、二人はわたしに優しいだろう。わたしもいろんな心配をしなくて済む。

明日からの残りの三日間、いったいどのようにして過ごしていこうか。

もう一度二人の顔を思い浮かべ、そっと目を閉じ、二人とさようならすることを決めて眠りに就いた。