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眠るアジア -その2

 当初はシンガポールへ行くつもりだったが、クアラ・ルンプル行きの方が安かったことと、どのみちシンガポール行きのチケットはクアラ・ルンプルで乗り換えが必要だったこともあって、始めからクアラ・ルンプルに行ってしまうことにした。

 マレーシアに来た目的はひとつ。マレー鉄道に乗ってタイへ国境を越えることだ。調べてみると、クアラ・ルンプルからタイのバンコクまで一本で行く電車はすでに無く、少なくとも2、3回の乗り換えは必要なようだった。たった1年前の情報でももはや古く、交通事情は刻一刻と変化している。翌朝にマレーシア北部のバタワースまで行くチケットを買い、ペナン島に一泊することを決めると、街を見てまわった。中華街やマレーシア最大のヒンドゥー教の寺院など手近に見ることのできる場所を巡り、屋台で晩ご飯を済ませ、缶ビールとおつまみを買って宿に戻ってくると、ロビーで何人かがテレビを見ていた。

 いよいよ明日はアメリカ大統領選挙の投票日。

 神妙とも憂鬱ともとれるような表情でテレビを見つめる彼らの横で、自分が思っていたよりも、ずっとずっと多くの人たちがこの選挙の行方を固唾を呑んで見守っていることを感じた瞬間だった。

 

 クアラ・ルンプルのターミナル駅であるKLセントラルからバタワース駅までの車両は新幹線並みにきれいで、天井からはモニターが吊り下がっており、アニメ映画『ベイマックス』が繰り返し放映されていた。古く懐かしい電車旅を期待していた分がっかりもしたが、その代わり持ってきていた本をかなり読み進めることができた。

 バタワース駅で降り、フェリーでペナン島に渡ったのが昼過ぎ頃。宿で荷をほどき、町歩きを初めて割とすぐだったと思う。とある道で地元の男の子と目が合った。通り過ぎたあとも、何となく視線を感じる。そのままモスクを参拝して出てきたところをさっきの男の子に、カメラのシャッターを押してもらえませんかと話しかけられた。ここらの人のようだし、大して撮影スポットらしくない背景で写真を撮ることを不思議に思いつつ、快くシャッターを押して、スマホを返して道路へ出た時、「どこから来たの?ペナンは初めて?」と前を歩いていた彼が振り返って話しかけてきた。ここでようやくさっきの写真は話しかける口実だったことに気付く。デニーと名乗る23歳の彼はペナンに住んでいて、今日は仕事が休みなので出かけようとしていたらしい。日本から来たこと、ペナンは初めてであることを伝えると、僕が案内してあげると言う。ペナンはこの日しか滞在しないし、地元の人に案内してもらったほうが効率的に、また思わぬディープなペナンの顔を知ることができるかもしれないと考えたわたしは案内をお願いすることにした。

 しかし、それは大いなる間違いであった。間違いというより、人選ミスだった。

 デニーは始めこそペナン島の撮影スポットや町の見どころを紹介してくれたものの、聞いてくることは男性関係のことばかりで、次第にボディタッチが多くなってくる始末。日本のアニメが好きで、日本人の女の子と仲良くなりたいと思っていたと話すと、今日だけ僕の彼女になってくれないかと尋ねるので、アニメの女の子と現実の女の子は違うし、たとえ一日だけだとしてもわたしは君の彼女にはなれないと伝えると、めげるかと思いきや、彼女になってもらうのは諦めるからキスしてくれと言い出した。彼の不屈の精神には感心しながらも、ひとりで町をまわっていた方がよっぽど楽しかったと後悔した。

 その後も、ありとあらゆるお願いを断って、しぶしぶ日本の歌を歌った時にわたしが選んだのは、ザ・フォーク・クルセダーズの『悲しくてやりきれない』だった。

 

 とはいえ、彼が多少なりとも案内してくれたことは事実だし、私たちは求めているものが違うだけで、善意でやってくれたことに怒るのは筋違いだ。デニーとは、夕飯へ一緒に行くまでの間しばし解散となったが、まったく気分が乗らない。宿近くの酒屋では、地元の人に交じってバックパッカーたちが店で買ったお酒を外の椅子に座って呑んでいる。気を紛らわそうと、それに習ってちびちび缶ビールを飲んでいるうちに、休暇で故郷ペナンに帰ってきている現地の人と話が弾んだ。結局、酒屋の前で会ったラッシュも含めた3人で夕飯を食べに行ったが、2人で食事をするつもりだったらしいデニーは始終不機嫌で、ラッシュやわたしが話を振るもののまったく会話が弾まずに、淀んだ空気のままお開きとなった。

 

 わたしはどうするべきだったんだろう。

 町を案内してくれたお礼としてデニーのその日限りの恋人になれば良かったのか。愛情は決してそんなものじゃないと、わたしは思う。わたしはただ、みんなで楽しくごはんが食べたかった。だから、バックパッカーや地元の人と肩を並べ、ひとつ酒屋の前で呑みながら他愛ない世間話をしている時が一番楽しかった。

 旅の中でわたしが求めているのはロマンスじゃない、友情だ。そのことがはっきりと分かった。

 

 翌朝、対岸のペナン島に苦い気持ちを残しながら、タイとの国境へ向かうべくバタワース駅をあとにした。