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眠るアジア -その3

 今回の旅は、移動がテーマだった。これまでも、ひとりで海外を旅することはあったが、基本的にひとつの町にしか滞在していなかったので、町から町へ、国から国へと移動するのは初めてのことだ。それゆえに、タイ国境を目指す電車の中ではすでにクライマックスを迎えたかのような気分になっていた。地続きに他の国へ越えてゆけるなんて、やはり不思議な気持ちになる。

 パダン・バサール駅は広くて何もない駅だった。特別案内板もないので、寝台列車のチケット売り場を見つけるにも一苦労する。チケットは割と早くに売り切れてしまうとインターネットの記事で読んだので早くに来たのだが、それでも早く着きすぎたようで、窓口では2時間後にまた来てくれと言われてしまった。時間を潰そうにも潰す場所がないので、駅の外まで行ってみることにする。

 外ではイミグレーションの前で長蛇の列ができていた。駅の中にもイミグレーションがあったところを見ると、この人たちは電車ではないルートで国境を越えるんだろうか。それにしても、列の進みが遅い。タイのお金を持っていないので、換金ショップが近くにあるか聞こうと並んではみたが、あまり遅いので辟易してくる。結局、換金できるところはないと言われ、仕方がないのでマレーシア側にとって返し、市場で時間を潰してから駅に戻った。

 その後、チケットは無事に買えたものの、イミグレーションが開くまでさらに2時間待つ必要があった。外はかんかん照りだし、行くところもないので、駅構内のベンチで本を読んで過ごしたが、ここのイミグレーションもとてつもなく時間がかかった。並んでいる人数は少ないのに、あまりに時間がかかるので、旅行者たちは不思議に思い、何度も前をのぞいたりしている。

 皆がしびれを切らし始めた頃、別の係員が並んでいる旅行者のパスポートをチェックし始めた。これで少しはスムーズになるかと皆が思った時、わたしの前にいた男性の横で係員がぴたりと止まった。係員は男性がイスラム圏の人間だと分かると、パスポートを乱雑に返しながら、あっちへ行けという。男性が怪訝な顔をしても、係員は表情を変えることなく、あっちへ行けと身振りするのみだ。男性のパスポートに何か問題があるらしいことは分かったが、何が必要でどこに行かなければならないのか説明はなされなかった。男性が不案内な駅の中をうろうろ歩くのを見て助けたいと思ったが、何が問題なのかが分からず、ただうつむいて自分の番を待つほかなかった。係員は、わたしのポスポートはチェックしなかった。

 

 なぜ、チェックされなかったのかと考えているうちに順番が回ってきたが、その時、問題は起きた。係員がチョップがないと言うのだ。始め、チョップの意味が分からず、押し問答しているうちにスタンプのことだと分かったので、マレーシアのスタンプならここにあると指さしたが、係員はもらってこいの一点張りで、どこでもらってくればいいのかと尋ねてもあっちだと言うだけで、そのあっちがどこなのかがちっとも分からない。いよいよ困ったと思った瞬間、マレーシア人のおじさんが流暢な英語で助け船を出してくれた。つまりは、マレーシア出国のスタンプが足りていなかったのだが、そのスタンプを押してもらう場所は、なんと昼間わたしが並んだ駅の外のイミグレーションだったのだ。

 あの長蛇の列を思い出しただけでぞっとした。よっぽど悲惨な顔をしていたのだろう、おじさんは俺が連れて行ってやるというと、すたすたと歩き出した。

 「君は何時にこの駅に着いたんだい?」

 「11時にはいました」

 「一体この時間まで何をしていたんだ!?」

 「駅外のイミグレーションに行く必要があるなんて知らなくて…すみません…」

 真っ赤なテニスバッグを肩に大股で歩くおじさんに必死で追いつきながら、この人がいなかったらどうなっていたことかと冷や汗をかいた。アランおじさんは、駅の外にたむろしていた目つきの悪いおじさんたちとマレー語でなにやら交渉すると、そのうちのひとりがすぐにクルマを出してくれた。車に乗ったままだと、イミグレーションはあっという間に通過できるらしい。安心したのも束の間、今度はタイ側のイミグレーションに行くという。こちらは車から降りて並ぶ必要があり、それほど人数は並んでいなかったのに、またものすごく時間がかかった。西日が傾き始め、列車の発車時刻までに戻れるのか気が気でないわたしをよそに、アランおじさんたちは悠々とたばこを吸っている。

 

 結局、このイミグレーション騒動でも2時間近くかかり、駅に着いたのは発車10分前だった。しかし、さっきまでいた駅と違う。目つきの悪いおじさんはとっくに走り去ったし、アランおじさんは平然としている。

 「ここはパダン・バサール駅でいいんだよね?」

 「そう。ここは同じパダン・バサール駅だけど、タイ側のパダン・バサール駅だ」

 駅には10月になくなったタイ国王の大きな写真と献花台が設けられていた。間に合った、という実感がようやくわいてきて、目つきの悪いおじさんにきちんとお礼を言っていないことに気がついた。おじさんはもう、行ってしまった。彼に言えなかった分、アランおじさんに言おう。アランおじさんはマレーシアの子どもたちのテニスコーチで、バンコクへは自身が出場する大会のために行くそうだ。

 

 寝台列車がタイのパダン・バサール駅へ着く。そういえば、あのイスラムの男性は無事、この列車に乗れたんだろうか。誰か、彼を手助けしてくれる人はいたんだろうか。目つきの悪いおじさんやアランおじさんの助けがなければ、わたしはこの列車に乗れなかった。のろのろ進み始めた列車の窓から眺める夕陽は、涙がにじむほど美しかった。