眠るアジア -その4

 わたしは寝台列車が好きだ。

 これまでの寝台列車の記憶には、いずれもちょっとしたピンチがついて回るのだが、そのために印象的な乗り物として心に残っている。今回も何とか無事バンコクまでは辿り着けそうだ。途中の駅からは、同じくバンコクでテニスの大会に参加するアランおじさんの旧友も加わった。駅で止まるたびに、かごを食べ物でいっぱいにした売り子がやってくる。ナイトバザールが盛り上がっている町もあったし、田んぼの中に駅だけがあるような閑散とした町もあった。決して速いとは言えないこの寝台列車は、ゆっくりゆっくりタイ南部の町を通り過ぎていった。

 

 翌朝、食堂車で朝食を済ませて戻ってくると、2つ先のブロックで日本人女性2人とマレーシア人の女性が話していた。2人が日本人であることは、列車に乗ってすぐ気づいていたが、だからといって話しかけることもない。自分の席に戻って本を読み始めたが、どうも気になる。マレーシア人の女性が話しかけることに2人は曖昧な相槌を打つだけで会話とならない。わたしも英語に長けているわけではないので、加わったところで曖昧な相槌を打つ人数が増えるだけかもしれないし、話しかけるのには勇気がいる。だけど、女の子の友達が欲しかった。女性同士でおしゃべりがしたかったし、ここで日本人の友達ができるのは楽しいかもしれない。それからも数十分は迷っていたが、意を決して本をしまうと揺れる列車の中を歩いて行って片方の日本人女性に話しかけた。おそらく、彼女たちもわたしが日本人であることには気づいていたようで、特別驚いた様子はなかった。しかし、わたしの問いかけにも聞かれたから仕方なく答えている様子が明らかに見て取れた。マレーシア人の女性はわたしに気がつくと、イミグレーションは大丈夫だったかと尋ねてきた。昨日、慌てふためいていたのを見ていたらしい。アランおじさんが助けてくれて何とかなりました、焦りましたと話し始めたのを見て、日本人の2人は通路を挟んで逆の席へと移ってしまった。彼女たちは、目の前のマレーシア人女性とも、わたしとも、話したくなかったのだ。4人でおしゃべりができたら、日本人の友達ができたらという空想は一瞬で消えた。

 向かいにいる友だちとは日本へ帰ってからも話せるじゃないか。このマレーシア人の女性とはこの列車の中だけでしか話せないのに、何故話そうとしないのか。

 どうして、わざわざのろのろ進む寝台列車に乗っているのか。

 どうしてマレーシアなのか。

 どうしてタイなのか。

 たくさんの疑問と、悲しさと、悔しさとが、駆け巡った。その時は、悲しい気持ちが一番強かったが、今にして思う。あの2人とわたしもまた、求めているものが違っていただけなのだ。その後、2人は話すことも止め、それぞれのスマートフォンの画面に吸い込まれていった。

 わたしはフェリシアとたくさんの話をした。フェリシアは20歳以上も年上で、今はタイの大学で勉強をしている。仕事の話、お金の話、美容の話、わたしの英語はどれも拙かったけれど、それでも語り合ったという実感があった。アランおじさんはバンコクの少し手前で降り、フェリシアともバンコク駅で別れた。ここから安宿街として有名なカオサン通りを目指す。客引きを振り切り、人に道を聞き、迷いと繰り返して、車の騒音と溢れかえる人でごった返すカオサン通りに着く頃には、チャオプラヤ川を上る船で揺れた拍子に全身水をかぶった服も乾き始めていた。

 

 タイへ入ってから、およそ公と名の付くところには、ほぼ必ず亡き国王の写真と献花台が設けられていた。駅や寺はもちろん、道路にもあちこちあった。バンコクで商売している人の多くは黒い服を着ていたし、露店でも多くの黒い服が売られていた。とはいえ、日本の11月と違ってタイの11月はTシャツ1枚で過ごせる陽気なので、喪服というよりはいつも着ているTシャツや長袖を黒いものに変えているようだった。カオサン通りでは、観光者向けに安全ピンに着いた黒いリボンを配っていて、ひとつもらってタイ滞在中はTシャツの袖にずっと付けているようにした。バンコク滞在2日目には、王宮前広場でセレモニーがあり、喪服を着た多くの市民が国王追悼のために列をなしており、亡き国王の人気の高さが窺える。セレモニーの翌日からは、黒い服を着ている人も少しずつ減っていった。

 

 タイへは11年前に一度来たことがある。通っていた高校とYMCAの共同企画で、タイ北部の小学校に図書館を建てるツアーに参加して、一週間ホームステイをした。その家族のひとり、チネがバンコクで働いているのだ。家族とはずいぶん昔に連絡が途絶えていたが、去年、どうやって探したのかfacebookで突然チネから友達申請が来た。最初、知らない外国人からのスパムだと思って無視していたら何通もメッセージが届くので、おそるおそる返事をしたらチネだと分かった。アイコンの写真と、11年前の少女がまったく結びつかず、ふくよかな点を除けばチネは驚くほど美しいお姉さんに成長していた。チネは大学で溶接を教える仕事の傍ら、自らも学生として勉強を続けていた。2つ年上の彼氏であるチョーンと一戸建てに住んでいて、家の内装などは2人で手がけ、いま、まさにつくり途中なのだと写真を見せてくれた。わたしはてっきり、チネはモデルか何かだと思い込んでいたので、びっくりしっぱなしだった。

 2人はとても優しかった。屋台にごはんを食べに行き、休日はサメサン島にあるビーチや、パッタヤーの水上マーケットにも連れて行ってくれた。懐かしい友人をもてなすといっても、ここまでしてくれるものなのかと思うくらい、2人はどこまでも優しかった。ひとりで過ごしている時も楽しかった。アユタヤにも行ったし、バスを乗り違えて1時間半歩いて帰る羽目になった時も、いろんな町の顔に出会えたし、買い物にもだいぶ慣れてきた。数日後には、ホストファミリーが住むタイ北部の村も訪れるし、すべては順調に思えた。

 その夜だった。ある人から一通のメールが届いた。

 「岸本様 唐突のメール失礼いたします。先日、軽くお話ししたとおり、今回の仕事お願いしたいと思っております。その件に関して、色々とお話ししておく情報などありますので、一度ご連絡頂ければと思います。」

 

 忘れていたわけではなかったが、考えていなかった。今回、時間をかけて考えたいと思って、大好きな監督の誘いを断ったのは、まさにこのことについて考えなくてはいけないからだった。正直に言えば、このメールをくれた会社の入社を、わたしは一度断られている。迷っているのは、一度断ったくせに今更は入れるかという怒りではなく、本当にこの道に進んでいいのかという迷いがあったからだ。

 それを考えるには時間が必要だし、仕事をしながらではできないと考えたわたしは年明けに答えを出すと自分に約束して年内いっぱい働かないことを決めたのだ。

 そのヒントを探すための、この旅なのだ。

 すぐには返事ができなかった。けたたましくなるクラクションと往来する人の声、そしてすぐ下のベッドで愛し合うカップルのあえぎ声に思考を遮られ、バンコク最後の夜は眠れないまま時間だけが過ぎていった。