眠るアジア -その5

 チネ以外の家族は、英語が話せなかった。チネの話では、お父さんが少し話せるかもということだったが、実際には話せなかった。お父さんは、ずっと韓国へ出稼ぎに行っていて、6年前、タイへ帰ってきている。わたしとお父さんは今回が初対面だ。いまは、チネの4つ年上の兄で、わたしと同い年のヌイが同じく韓国へ出稼ぎに行っている。もう6年になるそうだが、ヌイにはお嫁さんと2人の子供がいて、5歳の長女キン、4歳の長男クンの姉弟はお父さんに似て目がぱっちりして可愛い。このバンブーンナック村では、出稼ぎで親がいないことは珍しくなく、11年前も片親の子や、両親不在で祖母に育てられている子がいた。

 家族との会話は困難を極めた。わたしが知っているタイ語といえば、「サワッディーカァ(こんにちは)」「コプクンカァ(ありがとう)」「アロイ(おいしい)」「サヌーク(楽しい)」のわずか4つだ。バンコクにいる間、チネに単語を教えてもらっておくべきだった。チネは英語が話せることに安心しきっていた。スマートフォンに泰日翻訳アプリを入れ、お母さんに伝えたい言葉を入力してもらって「佐野インター」と表示された時は、もう笑うしかなかった。翻訳アプリの精度は低いし、いくら言葉を交わすためとはいえ、スマートフォンばかり見ているのは何か違う。スマートフォンを使うのは極力控えた。

 それでも、家族や近所の人たちと茣蓙の上でひとつ円になり、同じ鍋をつついている間は、みんなはタイ語で私は日本語を使っていても不思議と話ができていた。言葉が分からないのに、大笑いした。

 

 その晩は満月で、この小さな村でもコムローイをやっていた。

 火の灯った灯篭が4つ、軽やかに漆黒の空を上がっていく。バンブーンナック村の夜は、喧騒のバンコクとは打って変わって、とても心穏やかで静かだった。

 

 翌朝は、朝ごはんよりも早く小学校の先生に連れられて懐かしの学校へ。わたしたちが建てた図書館は健在で、中には当時の写真も飾られていた。しかし、この図書館も来年には建て替えとなるようで、たまたま今年この村に来れたことを運命のように感じた。やってくる先生の誰もかれもが、田舎に遊びに来た孫を迎えるかのように暖かく接してくれる。子どもたちも、見慣れぬ客の来訪に興味を示しているが、話しかけてはこない。先生たちに囲まれているわたしと一定の距離を保ったまま、話しかけたそうに見ている。それでも「サワッディーカァ」と声をかけると、はにかんだ笑顔で「サワッディーカァ」と返してくれる。そんな生徒たちの様子を見て、11年前も最初はこんな感じだったと思い出す。本当に村は当時のままで、自分だけが年を取ったような感覚だ。校長先生から朝礼で挨拶を頼まれ、人前で話すなどとてもできないと周りに助けを求めたが、先生たちはニコニコと見つめ返すだけで、とうとう生徒たちの前に押し出されてしまった。こんなことになると分かっていれば、せめて髪くらい結ったのに。なにしろ朝食前だったので完全に気が抜けていて、体操でもしようかと家の前に出たところを連れ去られてしまったのだ。ガチガチに緊張しながら、11年ぶりに村を訪れたこと、当時図書館を建てたこと、ここに来られてうれしいと思っていることを、日本語で話した。いつの間にか、お母さんが来ていて、整列している子供に交じってスマートフォンで私を撮っている。ドラマや漫画のように「ちょっとお母さん、恥ずかしいからやめてよ!」と言いたい気持ちになって、そんな気持ちになったことにもくすぐったくなった。

 

 村にいたのはたった24時間だったが、ものすごく印象的な24時間だった。村を離れてからも、お母さんからはほぼ毎日何かしらメッセージが届いて、夜には電話がかかってきた。電話越しに話すのはお父さんで、お互い通じないことは分かっているので、わたしの方は、いま自分のいる地名と次に行く地名と、「サヌーク(楽しい)」を何度も繰り返し、お父さんもそれを復唱した。会話にならないと分かっていても、なお電話をくれる愛情深さは嬉しかったが、ボディランゲージもできないし、翻訳アプリを見ることもできないので電話は正直少し困った。

 しかし、チネやヌイから届いた、まいが村まで会いに行ってくれて嬉しかったというメッセージを見ると、あながちこの旅も自己満足だけではなかったかなと思えた。