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眠るアジア -その6

 一見動いていないようにも見えるこの濁った茶色い川は、チベット高原に源流を発し、6つもの国を通って海へと流れる。“偉大な川”の意味を持つ東南アジア最長の川、メコン川だ。

 メコン川を挟んでタイと隣接するラオスの街・ファイサーイは、ゲストハウスと食堂が並ぶメイン通りが一本あるだけの小さな村で、泊まっている客はほぼもれなくこの船着き場から古都ルアンパバーンを目指す。ファイサーイからルアンパバーンまで、途中パークベンで一泊する以外は丸二日このスローボートの上で過ごすことになる。6時間でルアンパバーンまで走り抜けるスピードボートもあったが、のんびり下っていく方が性に合っている。船着き場に到着したのが午前10時。船が出るまで2~3時間、オランダ人の女の子、マユークと肩を並べただひたすら待った。東南アジアの旅に待つことはつきもので時間通りに出発しなくても焦ってはいけない。待っていれば、そのうち出発する。結局、スローボートが出発したのは予定時刻よりも1時間半以上経ってからだった。

 

 両側にうっそうとした森が続き、時折崖となり、明るい山々が広がる。その景色が交互に繰り返され、その中で水牛が草を食んでいる。マユークもわたしも積極的におしゃべりをするタイプではないので、たまに話すほかは、それぞれ好きなことをして過ごした。マユークはフリーランスでドキュメンタリーのカメラアシスタントをしていて、お互い一人旅であることや、背格好や服装など似通った点が多かったので、わたしは勝手に親近感を感じていた。同じ船にはマユークの友達エルザも乗っていて、一緒に旅しているわけではないのだが、行く先々で会うので同郷ということもあって仲良くなったらしい。パークベンで船を下りてから、すでに宿の予約をしていた2人の仲間に入れてもらい、同じゲストハウスへ。わたしの部屋は広々としたツインで、部屋にシャワーとトイレも付いていた。ドミトリーも慣れっこだが、やっぱり人目を気にせずくつろげるのは嬉しい。

 エルザは少し早口だった。3人で晩御飯を食べに行った時も、わたしに気を使って話題を振ってくれるのだが、たまに聞き取れずに聞き返してしまう。2人で話していると、オランダ訛りなのか、本当にオランダ語なのかますます聞き取れない。2人と比べて私は圧倒的に英語ができないと引け目を感じ、話すと下手だと思われると考え出すと、下手な英語を使ってまで話すことはないような気がしてしまって、わたしは徐々に無口になっていった。

 

 2日目、乗船してから、2人並んだ席の後ろでひとり、ほとんど誰とも話すことなく過ごした。話さずに済んだことに安心していた。つまらない子だと思われているんだろうな、それならそれでもいいか、と諦めた気持ちだった。

 なにしろこの船の上にも時間だけはたくさんあった。前の2人のことばかり気にしていたわたしもぼんやり景色を眺めているうちに、自然と考えはこれからの自分のことへと向いていった。

 自分はこのままでいいんだろうかと考える時期は、誰にでも訪れる。盲目的にこれぞ我が道と信じられたら楽だけど、人間はそんなに単純にできていない。今まで携わってきた仕事が嫌いだったわけではなくて、むしろ大好きだった。だけど、それよりももっとやりたいことがあって、27歳になって、まだ27歳なのだとふと感じた。まだ27歳だからこそ、もう動かなくてはという気持ちだった。せっかく仕事のサイクルができてきたのに、という声ももちろんあった。しかし、フリーランスでありながら、実際にはほとんど次の仕事が約束されているような状況に違和感を感じていた。仕事がもらえることはとてもありがたいし、今まで呼んでくれた人たちが人手だけの問題でわたしを雇っていたとも思わない。ただ、自分にはこれがある、だから呼んでくれと胸を張って言えるものが欲しい。他人と比べてどうこうではなく、自分はこれを武器に戦っていくんだと、わたし自身が信じられる何かが欲しい。それで自ら退路を断った上で、とある会社を受けたら落ちてしまった。落ちたので他の道を考えていたら、うちにやっぱり来ないかと言われた。周りからは良かったねと言われたけど、そこで考えてしまったのだ。本当にここでその武器は得られるんだろうか、これは本当に自分がやりたかったことなのだろうかと。ひとつ分かったことがあると、反対側からまたひとつ分からないことが出てくる。たかだか数時間考えたくらいで答えは掴めず、船はルアンパバーンに着いてしまった。

 2人はわたしに背を向けたまま、SIMカードの店や宿の場所を確かめている。一緒に行ってもいいか聞く勇気はもちろんなく、ただお別れを言いたいだけなのに、それでもなかなか声をかけられず、しばらく後ろに突っ立っていたが、ようやく2人の体の向きが変わった瞬間、すばやくじゃあねと切り出した。くるりと向きを変えると、さっさとメインストリートへ歩き出す。その時のわたしは、劣等感と惨めさで、いっぱいだった。