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眠るアジア -その10

 ここまで、香港、ブルネイ、マレーシア、タイ、ラオスベトナムと回ってもちろん楽しかったのだが、いろんなことを考えて少し疲れてしまったので、最後は思い切りリラクゼーションに徹しようと決めた。台湾はいまや日本人が週末に訪れる人気観光地であるし、マッサージや小籠包の店などを巡ったら心も体も癒されること間違いない。

 人気スポットの九份へ行こうと思ったのだが、ここで天邪鬼な心が働き、結局、烏来(ウーライ)へ行くことに。烏来は、台湾の先住民族の一つ、タイヤル族が暮らしていた地域で、温泉街としても有名だ。地元の人に交じって足湯に浸かっていた時は癒されていたのだが、そのあと震災の爪痕が残るトロッコ駅舎や、日本統治時代の戦没者の石碑を見て、またいろいろ考えさせられてしまった。

 烏来のあとに三峡と鶯歌も行ってはみたが、ゲストハウスへ戻ってからも昼間に見た石碑のことが頭から離れない。泊まっていたのが知人に紹介された日本人宿で、この時ばかりはやたらとフレンドリーでにぎやかな欧米人バックパッカーがいてくれたらいいのになと思った。

 

 そうは言っても決してずっと塞ぎ込んでいたわけではなくて、最終日に自分や友人にお土産を買い集めていた時は、かなり気持ちがはしゃいでいた。大きな荷物を抱え、満足して空港行きのバスを待っていると背の高い女性に話しかけられた。

 短髪ですらっとして高身長の渡邉さんは、日本企業から単身で台湾支社に赴任してもう3年になるという。仕事を終えて空港の一つ先のバス停にある自宅まで帰るところだったそうだ。台湾は日本に似ていて過ごしやすいし楽しいですねと話すと、観光で来ている分にはそうでしょうね、と返ってきた。

 台湾人はのんびり屋で時間通りには来ないし、頼んだ仕事もやらないし、面倒くさがりだし、とにかく最初の一年は何度帰ろうと思ったか分からないという渡邉さんは、その後もとにかく台湾人のずぼらさをまくしたてた。

「でも、病気した時の優しさは沁みますよ」

 渡邉さんが胃腸炎になった時、友人は病院へ連れて行くと言って会社を早退し、会社の人も心配のあまり手料理をたくさん持ってわざわざ自宅まで見舞いに来たそうだ。日本でなら、友人の体調不良を理由に早退するなどまず考えられないが、台湾は仕事よりも家族や友人との時間を大切にする風潮があるので、それも許されてしまう。その他にも、月収が約6万円と少額なので働くモチベーションが上がらず、より高給な日本で働くことを希望している台湾人は多くいるのだということも、渡邉さんが教えてくれた。日本で働きたいという声は、ここ台湾以外でも多く聞いた。お金がすべてではないが、金銭的な余裕がなければ、心の余裕が失われるのも確かだ。

 台湾人の困ったところを話しながらも、渡邉さんは始終笑顔で、お金を貯めて台湾に家を建てるのだと言う。自分にはこれがあるというものを、ここ台湾で見つけたのだ。バスの中の1時間はあっという間だった。

 

 日本へ帰ってきてから、お世話になった人たちに日本へ着きましたとメッセージを送った。普段通りの生活に戻っている人もいれば、旅を続けている人も、新しい生活を始めた人もいた。わたしは、これからどうするんだろう。どうするか決めようと思って出発したのに、もっといろんな可能性を目の当たりにして、余計に分からなくなってしまった。でも、考えるヒントはたくさんもらったと思う。

 

 最近、街中でよく外国人を目にする。いきなり外国人の数が膨大に増えたわけでもないだろうから、わたしが意識するようになったということだろう。むしろ、いままでは全く目に入っていなかったということでもある。

 このアジア東端の国、日本には今年2000万人以上の外国人が訪れた。今後、2020年に向けてもっと多くの外国人旅行者がこの国を訪れるだろう。その時、たくさんの日本人が自分の中にある無意識の属性に気づくことになるかもしれない。

 わたしもまだ出会っていない無数の発見が、この広いアジアの中で眠っている。

眠るアジア -その9

 ホーチミンも3日目になると、バスも使いこなせるようになり、屋台飯の注文にも慣れてきた。ホーチミンはよく雨が降った。だいたい夕方になると、突然スコールのような大雨が降り、途中降ったりやんだりしながら、2時間程降り続く。町の人たちは慣れたもので、降ってくるとすぐレインコートを着てそのままオートバイで走り続ける。慣れているから大丈夫なのかと思いきや、雨の中でオートバイごと転倒している人もよく見かけた。始めのうちは軒下から軒下へと子鼠のように雨をさけて走っていたわたしも、途中から諦めて濡れ鼠になって歩いて帰ってこともあった。

 その晩は、前日まで泊まっていたゲストハウスに洗濯物を取りに行った帰りで、ずぶ濡れになって戻り、屋台で温かいフォーを食べてから宿に帰ってきた。シャワーを浴びてロビーへ出ると、スタッフとスタニスラスがまたお酒を飲んでいる。このゲストハウスのロビーはとても狭く、談話できるスペースはここにしかないので、受付のスタッフと宿泊者たちは自然とおしゃべりする仲になっていた。今晩は、ベトナム人の女の子2人とスタニスラスに加え、ブラジル人とイエメン人の男性がおしゃべりをしていた。一番陽気で饒舌なブラジル人が、日本人はほとんどのアジアの国でビザが要らないのは本当かと聞くので、本当だと答えると、やっぱり日本は金持ちだから違うという。

「僕らブラジル人は、例えばヨーロッパに行くだろ。そうすると、ゲートでまず何しに来たんだって聞かれるんだ。観光だって答えると疑いの目を向けられて、銃を持ってないか、麻薬を持ってないかと聞かれる。3回は聞かれるんだから、参っちゃうよ。このまま住み着いちゃうんじゃないかって思われてるんだ」

 隣でイエメン人の彼も頷いている。

「あと、フランス人は特にそう思っている。フランス人には英語で聞いても無視されるし、自分たちが世界で一番だと思っている。実際そうだろ?」

 聞かれたスタニスラスは、僕個人はそう思っていないが、と前置きした上で、「そうだと思う」と答えた。ブラジル人の彼の口ぶりは明るく、すべて面白おかしく話していたが、言っていることは痛烈な批判だった。

 わたしは、タイ国境でのイミグレーションのことを思い出した。イスラム圏の男性が邪険に扱われたのは、きっとあれが初めてではなかっただろう。その後ろにいたわたしのパスポートがチェックされなかったことと、わたしが日本人であることは無関係だったのだろうか。いまとなってはそうは思えない。

 ブラジル人の彼は、日本人はどこへ行ったって歓迎されると言った。それはもちろん、お金を持っているからだ。

 わたしはその日の昼間のことも思い出した。突然降り出した雨をさけるため、たまたま飛び込んだ高級ホテルで、ロビーの真ん中で、このホテルで一番いい部屋をすぐに押さえるように、と部下を走らせた日本人男性を見た。まるでお金持ちの俺が泊まってやるんだとでも言いたげな背中で、一刻も早くここから飛び出したい気持ちになった。

 フランス人の他の民族に対する優越感。ヨーロッパの他地域に対する優越感。そして、日本人の東南アジア諸国に対する優越感。

 自分の中にも、なかったわけじゃない。その浅ましさに気づかされてしまった。

 

 その時、ゲストハウスの扉が開いてカップルが入ってきた。ブラジル人の彼は2人と挨拶を交わすと、ちょうど席を空けていたスタッフに代わってゲストハウスの使い方を説明し始めた。イギリス人カップルの男性は、説明を聞き終えるとお礼を言ってブラジル人に名前を聞いた。そして、その隣のイエメン人に聞き、その隣のわたしを飛ばして、スタニスラスに聞いた。

 ものすごくびっくりした。あのイギリス人には悪気はなかったのだと思う。初対面なのだから、個人的に嫌がらせをされるはずがないし、それを証拠にブラジル人の反対隣りにいたベトナムの女の子も名前を聞かれなかった。スタッフが戻ってきて、イギリス人カップルは上のフロアへと出て行った。

 それなりにショックだったが、イギリス人カップルの気持ちも分かる。わたしでさえ、同じアジアの人から流暢な英語で話しかけられると、こんなに話せるのかと驚くのだ。外見のイメージからアジア圏の人はきっと聞き取れていないから名前を聞かなくてもいいという判断に自然となるのも理解できる。これも無意識のうちに抱えている優越感の一つなのだろう。

 

 この旅をしている間、わたしは何度も「Your English is very good.」と言われた。しかし、そこには「日本人なのに」という枕詞が隠されている。それを感じる瞬間はたくさんあったし、実際に面と向かって言われたこともあった。ちなみに、わたしの英語は決してgoodではない。発音をそれっぽく言えるだけで、語彙は乏しいので、身振り手振りと笑顔で大半をカバーしている。

 世間一般の認知としては、日本人はお金は落としてくれても話し相手にはならないというのが正直なところだろう。わたしも暗黙の裡にその役割を容認していた気がするが、いまは、お金が落とせなかったとしても下手は下手なりに友達になりたい。

 どこへ行ったかという記録ではなく、誰と出会ったかという記憶を残したい。

 これまでに何度も聞かれた「どこから来たの」という質問に「日本です」の答えがもたらす印象について、今回初めて考えた。そして、もっと大きな「アジア人」という枠について初めて意識した。

 わたしたちが無意識の中に下している判断は、自分の中に眠っている無数の属性に紐づいている。わたしの知らないことが、この先の旅にまだまだありそうだと思わせる、ホーチミン4日目の夜だった。

眠るアジア -その8

 ルアンパバーンからラオスの首都ビエンチャンまでバスでのろのろ行ってみるつもりだった。しかし、ここまで2週間の間に、滞在することの大切さを感じ始めていた。

 町に到着してからその町に慣れてくるまで少なくとも3日はかかる。それは交通手段を使いこなすことであったり、人々の暮らしをのぞいてみることだ。わたしが写真に撮りたいのは、建物や食べ物よりも、そこで暮らす人々の生活そのもので、それを撮ってもいいと思える距離まで近づくには時間がかかる。だとしたら、ラオスは十分自分の中で得るものがあったから、次にコマを進めて新しい町に少しでも長く滞在しよう。

 ルアンパバーン国際空港を飛び立ち、ホーチミンに着いたのは19日の夜だった。

 

 この時、飛行機の中で話しかけられるという初めての経験をした。隣に座っていたアメリカ人のサムは、WEBの仕事をしながらアジアを転々としているが、いまはホーチミンに住んでいて、明日から友人の事業を手伝いにベトナムの奥地へ行くのだそうだ。僕は今夜しかホーチミンにいないから是非とも一緒に晩御飯へ行こうと言われ、一瞬ペナンの記憶が脳裏をかすめたが、嫌になったら眠いと言って宿に帰ってしまえと快諾した。

 それぞれの宿に荷物を下し、お店選びはサムに任せたらハードロックカフェへ行くことになった。世界のどこにでもあるハードロックカフェホーチミンで行く必要ないじゃないかと思ったが、自分ひとりだったらまず確実に行かないので、それも面白いかと考え直した。中では、ずんずんと大音量で音楽が鳴り響き、お立ち台では過激な格好をしたシンガーがマイクを振り回し踊り狂っている。店内は時間が経つごとにヒートアップしていき、とうとう客もステージに乗って歌い出した。普段はどんな音楽を聴くのか尋ねると、意外にも久石譲しか聞かないという。試しにわたしの好きなアメリカンロックバンドの名を挙げてみたが、サムは本当に知らないようだった。サムはここの常連らしいが、久石譲しか聞かない人にもホーチミンハードロックカフェはグッとくるのか。

 その後もぐるぐると町の中を回遊し、歩いて見れる観光地をたくさん教えてもらった。その間、聴いてくることは風変わりな質問が多かった。サムを犬か猫で例えるならどちらだと思うかと、その理由についてや、これまでの人生で自分が最も輝いていた瞬間を3つ挙げるとしたら何かなど、どれもわたしの英会話能力をはるかに越えていて、その度に音を上げたが、それでもサムは大丈夫言えるはずだと、なかなか許してくれなかった。サムの不思議な質問は、夜中の3時まで続き、タクシーで自分の宿まで戻りながら、変な人に会ったものだと大あくびした。

 結局、次の日も出発までの1時間程、話し相手として呼び出されてしまったのだが。

 

 ホーチミンに行くのなら、ベトナム戦争の博物館は見た方がいいと妹に言われていたので、翌日はベトナム戦争証跡博物館に行ってみることにした。

 衝撃を受けたのは、2階の写真だった。2階には、日本人の報道カメラマンが撮った写真が何百枚にもわたって掲示されていて、立場は中立のため、アメリカ率いる南ベトナム軍の写真も、解放軍率いる北ベトナム軍の写真も同じくらいあった。それまで、さくさくとハイペースで見ていたわたしも、キャプションが日本語で書いてあるので、ついペースが落ちて一枚一枚見てしまった。

 写真の持つ圧倒的なリアリティもさることながら、キャプションの淡々とした説明が辛かった。

 写真は、兵士たちの最前線よりも、それが通り過ぎて行った後の人々の暮らしに密着したものが多かった。つい1秒前まで田んぼで農作業をしていた人が銃で脅され、目の前で親を撃ち殺された女の子が泣き崩れる。

 気が付くと、手のひらが爪の痕で真っ白になっていた。ずっと歯を食いしばっていたのか、奥歯までずきずきする。正直言って、その後の展示の内容は覚えていない。

 わたしと同じ日本人が、アメリカ人とベトナム人が同じように死んでいく様子をファインダー越しに何千回とその目に焼き付けた。戦後も、何度となくベトナムを訪れ、その後のベトナムの暮らしを撮った。わたしと同じ日本人が。

 

 うまく言葉では言い表せなかった。だから戦争はいけないとか、平和万歳とか、すんなり言葉で言い切れる程、分かりやすい気持ちではなかった。ただ、いまでも覚えているのは、博物館を出た時に、青空の下にカフェテリアが見えてほっとしたことと、戦後のメコンデルタで道路いっぱいに広がった黄色い米の写真だ。なぜかその一枚がその時も、いまも、心に残っていて、わたしは次の日、メコンデルタ日帰りツアーに参加することにしたのだ。

 ツアー中、米が道路いっぱいに広がる風景は見られなかったが、メコン川に浮かぶ島で、そこに住む子供たちと仲良くなった。一本道で出会った彼らは、わたしのカメラとスマートフォンで写真を取り合って始終楽しそうだった。しばらくつかまっていたので、集合時間までに戻ることを考えると、帰り道までつかまるわけにはいかないと思っていたが、果たして彼らは一本道でわたしを待っていた。両手に花束を抱えて。

 帰りもつかまってしまうと考えた自分が、ひどく恥ずかしかった。自分で撮った写真はすべて選定する私も、4人の子供たちがかわるがわる撮った42枚の写真だけは、旅から帰ったいまも一枚も捨てられずにいる。

眠るアジア -その7

 プーシーの丘は、ルアンパバーンでのお気に入りの場所だった。10分ほどでたどり着く山頂からは町が眺望できる。日中は入山料が取られるが、夕方5時過ぎから朝7時までの間は係員がいなくなるので、特に日没後の時間帯は地元の子供たちのたまり場となっていた。昼も夜も、わたしはよくここへ登った。昼はオレンジ色の屋根が連なる街並みを見に、夜は沈む直前の夕日が反射するメコン川を見に行った。

 ルアンパバーンは、いま人気沸騰中の町らしく、日本人観光客もずいぶん多かった。町自体がユネスコ文化遺産に登録されている古都で、お寺の数も多く、歩いて回れる規模なので、観光地のわりにはのんびりした雰囲気が町全体に流れていた。

 朝の5時から托鉢僧へのお布施が始まり、7時頃には小路に市が立ち始める。朝市はもっぱら食品が中心で、メコン川で獲れた魚から野菜、果物、ゲテモノと呼ばれる種類の食材までが並んで賑わうが、昼前には全部片付いてしまう。そして、夕方5時過ぎになると、今度は大通りで工芸品や土産物を中心とした市が立ち、観光客向けの屋台が数多く並ぶ。

 初日の宿は、町全体の様子を知るためにこの大通り沿いにしたが、少々値が張りもう一泊するとお金が足りなくなるので、翌日は宿を変えることにした。決めた宿は町の中心地から30分ほど歩く必要があったが、川沿いで雰囲気もいいし、何しろ安かった。受付でチェックインを済ませ、荷物を預けると、向こうから片手を上げて声をかけてくる人がいる。

 エルザだ。その隣でマユークも顔を上げた。

 やあ、と返事したものの気まずかった。じゃあねと言って別れたものの、小さな町だから会ってしまうかもしれないとは思っていたが、まさか移ってきた宿で会ってしまうとは。喧嘩別れではないが、わだかまりを感じているのは事実で、わたしは忙しいそぶりをして自転車を借りると急いで宿を出た。

 

 いまのはさすがに感じ悪かったかな、ここの宿だったんだね驚いたよ、くらい言うべきだっただろうかと、反省と自己嫌悪が始まった。ひとりでこういうことを考え出すと、だいたいポジティブな結論には至らないので嫌なのだが、それはいまに始まったことではないので自然と気持ちが逸れていくのを待つほかない。

 2人とは夜市でまた遭遇した。長袖のシャツの値段交渉に躍起になっていたら、いつの間にかエルザが後ろに来ていて何を買ったのか聞かれた。店のおばさんに半分悪態をつかれながらも、いい買い物をしたと満足気に言うわたしに、エルザは大仰に頷いた。

 この頃から、不思議とわだかまりはなくなっていった。というより、2人のことをあまり意識しなくなった。3人が3人とも、自分の見たいものを見ていたし、誰にも合わせるでもなくみんなが楽にふるまっていた。最初、マユークといた時もそうだったはずなのに、わたしが2人と比べて劣等感を感じ始めてから上手くいかなくなった。

 エルザは常に話しかけてくれていた。マユークの態度が変わったこともなかった。すべては、わたしひとりの意識の問題だった。

 

 翌朝、ロビーで一人朝食をとっていると、マユークが来て当たり前のように向かいの席に座った。2人で話していると、エルザも来てわたしの隣に座った。

「今日はどこに行くの?」

「滝を見に行こうかと思ってる」

「あ、昨日見に行った」

「何で行った?」

「ミニバン。ここのが安いよ」

「ホントだ。後で場所教えて」

「あとサウナも良かった」

「サウナ好きなの?」

「別にそういうわけじゃないけど、行ってみたら良かった」

「へえ」

 誰に主導権があるわけでもないつぶやきのような会話が心地良く続く。朝食が済んでも、3人はしばらくそこにぼんやりとしていた。

 

「じゃあ、わたしそろそろ行くね」

「OK、じゃあね」

 今度のじゃあね、は前のじゃあね、とまったく違う。またどこかの街角でひょっこり出くわすかもしれない。そうなったら嬉しいと思える軽やかな別れだった。

 帰国してから、一度マユークと連絡を取った。まだラオスにいて、エルザとはまた別々の旅路を行っているらしい。メッセージには会えて良かったと書かれていた。宿で再開しなかったら、この言葉もおべっかと捉えていただろう。

 自分の中に眠っていた卑屈さと久しぶりに会った。わたしの方こそ、会えて良かった。

眠るアジア -その6

 一見動いていないようにも見えるこの濁った茶色い川は、チベット高原に源流を発し、6つもの国を通って海へと流れる。“偉大な川”の意味を持つ東南アジア最長の川、メコン川だ。

 メコン川を挟んでタイと隣接するラオスの街・ファイサーイは、ゲストハウスと食堂が並ぶメイン通りが一本あるだけの小さな村で、泊まっている客はほぼもれなくこの船着き場から古都ルアンパバーンを目指す。ファイサーイからルアンパバーンまで、途中パークベンで一泊する以外は丸二日このスローボートの上で過ごすことになる。6時間でルアンパバーンまで走り抜けるスピードボートもあったが、のんびり下っていく方が性に合っている。船着き場に到着したのが午前10時。船が出るまで2~3時間、オランダ人の女の子、マユークと肩を並べただひたすら待った。東南アジアの旅に待つことはつきもので時間通りに出発しなくても焦ってはいけない。待っていれば、そのうち出発する。結局、スローボートが出発したのは予定時刻よりも1時間半以上経ってからだった。

 

 両側にうっそうとした森が続き、時折崖となり、明るい山々が広がる。その景色が交互に繰り返され、その中で水牛が草を食んでいる。マユークもわたしも積極的におしゃべりをするタイプではないので、たまに話すほかは、それぞれ好きなことをして過ごした。マユークはフリーランスでドキュメンタリーのカメラアシスタントをしていて、お互い一人旅であることや、背格好や服装など似通った点が多かったので、わたしは勝手に親近感を感じていた。同じ船にはマユークの友達エルザも乗っていて、一緒に旅しているわけではないのだが、行く先々で会うので同郷ということもあって仲良くなったらしい。パークベンで船を下りてから、すでに宿の予約をしていた2人の仲間に入れてもらい、同じゲストハウスへ。わたしの部屋は広々としたツインで、部屋にシャワーとトイレも付いていた。ドミトリーも慣れっこだが、やっぱり人目を気にせずくつろげるのは嬉しい。

 エルザは少し早口だった。3人で晩御飯を食べに行った時も、わたしに気を使って話題を振ってくれるのだが、たまに聞き取れずに聞き返してしまう。2人で話していると、オランダ訛りなのか、本当にオランダ語なのかますます聞き取れない。2人と比べて私は圧倒的に英語ができないと引け目を感じ、話すと下手だと思われると考え出すと、下手な英語を使ってまで話すことはないような気がしてしまって、わたしは徐々に無口になっていった。

 

 2日目、乗船してから、2人並んだ席の後ろでひとり、ほとんど誰とも話すことなく過ごした。話さずに済んだことに安心していた。つまらない子だと思われているんだろうな、それならそれでもいいか、と諦めた気持ちだった。

 なにしろこの船の上にも時間だけはたくさんあった。前の2人のことばかり気にしていたわたしもぼんやり景色を眺めているうちに、自然と考えはこれからの自分のことへと向いていった。

 自分はこのままでいいんだろうかと考える時期は、誰にでも訪れる。盲目的にこれぞ我が道と信じられたら楽だけど、人間はそんなに単純にできていない。今まで携わってきた仕事が嫌いだったわけではなくて、むしろ大好きだった。だけど、それよりももっとやりたいことがあって、27歳になって、まだ27歳なのだとふと感じた。まだ27歳だからこそ、もう動かなくてはという気持ちだった。せっかく仕事のサイクルができてきたのに、という声ももちろんあった。しかし、フリーランスでありながら、実際にはほとんど次の仕事が約束されているような状況に違和感を感じていた。仕事がもらえることはとてもありがたいし、今まで呼んでくれた人たちが人手だけの問題でわたしを雇っていたとも思わない。ただ、自分にはこれがある、だから呼んでくれと胸を張って言えるものが欲しい。他人と比べてどうこうではなく、自分はこれを武器に戦っていくんだと、わたし自身が信じられる何かが欲しい。それで自ら退路を断った上で、とある会社を受けたら落ちてしまった。落ちたので他の道を考えていたら、うちにやっぱり来ないかと言われた。周りからは良かったねと言われたけど、そこで考えてしまったのだ。本当にここでその武器は得られるんだろうか、これは本当に自分がやりたかったことなのだろうかと。ひとつ分かったことがあると、反対側からまたひとつ分からないことが出てくる。たかだか数時間考えたくらいで答えは掴めず、船はルアンパバーンに着いてしまった。

 2人はわたしに背を向けたまま、SIMカードの店や宿の場所を確かめている。一緒に行ってもいいか聞く勇気はもちろんなく、ただお別れを言いたいだけなのに、それでもなかなか声をかけられず、しばらく後ろに突っ立っていたが、ようやく2人の体の向きが変わった瞬間、すばやくじゃあねと切り出した。くるりと向きを変えると、さっさとメインストリートへ歩き出す。その時のわたしは、劣等感と惨めさで、いっぱいだった。

眠るアジア -その5

 チネ以外の家族は、英語が話せなかった。チネの話では、お父さんが少し話せるかもということだったが、実際には話せなかった。お父さんは、ずっと韓国へ出稼ぎに行っていて、6年前、タイへ帰ってきている。わたしとお父さんは今回が初対面だ。いまは、チネの4つ年上の兄で、わたしと同い年のヌイが同じく韓国へ出稼ぎに行っている。もう6年になるそうだが、ヌイにはお嫁さんと2人の子供がいて、5歳の長女キン、4歳の長男クンの姉弟はお父さんに似て目がぱっちりして可愛い。このバンブーンナック村では、出稼ぎで親がいないことは珍しくなく、11年前も片親の子や、両親不在で祖母に育てられている子がいた。

 家族との会話は困難を極めた。わたしが知っているタイ語といえば、「サワッディーカァ(こんにちは)」「コプクンカァ(ありがとう)」「アロイ(おいしい)」「サヌーク(楽しい)」のわずか4つだ。バンコクにいる間、チネに単語を教えてもらっておくべきだった。チネは英語が話せることに安心しきっていた。スマートフォンに泰日翻訳アプリを入れ、お母さんに伝えたい言葉を入力してもらって「佐野インター」と表示された時は、もう笑うしかなかった。翻訳アプリの精度は低いし、いくら言葉を交わすためとはいえ、スマートフォンばかり見ているのは何か違う。スマートフォンを使うのは極力控えた。

 それでも、家族や近所の人たちと茣蓙の上でひとつ円になり、同じ鍋をつついている間は、みんなはタイ語で私は日本語を使っていても不思議と話ができていた。言葉が分からないのに、大笑いした。

 

 その晩は満月で、この小さな村でもコムローイをやっていた。

 火の灯った灯篭が4つ、軽やかに漆黒の空を上がっていく。バンブーンナック村の夜は、喧騒のバンコクとは打って変わって、とても心穏やかで静かだった。

 

 翌朝は、朝ごはんよりも早く小学校の先生に連れられて懐かしの学校へ。わたしたちが建てた図書館は健在で、中には当時の写真も飾られていた。しかし、この図書館も来年には建て替えとなるようで、たまたま今年この村に来れたことを運命のように感じた。やってくる先生の誰もかれもが、田舎に遊びに来た孫を迎えるかのように暖かく接してくれる。子どもたちも、見慣れぬ客の来訪に興味を示しているが、話しかけてはこない。先生たちに囲まれているわたしと一定の距離を保ったまま、話しかけたそうに見ている。それでも「サワッディーカァ」と声をかけると、はにかんだ笑顔で「サワッディーカァ」と返してくれる。そんな生徒たちの様子を見て、11年前も最初はこんな感じだったと思い出す。本当に村は当時のままで、自分だけが年を取ったような感覚だ。校長先生から朝礼で挨拶を頼まれ、人前で話すなどとてもできないと周りに助けを求めたが、先生たちはニコニコと見つめ返すだけで、とうとう生徒たちの前に押し出されてしまった。こんなことになると分かっていれば、せめて髪くらい結ったのに。なにしろ朝食前だったので完全に気が抜けていて、体操でもしようかと家の前に出たところを連れ去られてしまったのだ。ガチガチに緊張しながら、11年ぶりに村を訪れたこと、当時図書館を建てたこと、ここに来られてうれしいと思っていることを、日本語で話した。いつの間にか、お母さんが来ていて、整列している子供に交じってスマートフォンで私を撮っている。ドラマや漫画のように「ちょっとお母さん、恥ずかしいからやめてよ!」と言いたい気持ちになって、そんな気持ちになったことにもくすぐったくなった。

 

 村にいたのはたった24時間だったが、ものすごく印象的な24時間だった。村を離れてからも、お母さんからはほぼ毎日何かしらメッセージが届いて、夜には電話がかかってきた。電話越しに話すのはお父さんで、お互い通じないことは分かっているので、わたしの方は、いま自分のいる地名と次に行く地名と、「サヌーク(楽しい)」を何度も繰り返し、お父さんもそれを復唱した。会話にならないと分かっていても、なお電話をくれる愛情深さは嬉しかったが、ボディランゲージもできないし、翻訳アプリを見ることもできないので電話は正直少し困った。

 しかし、チネやヌイから届いた、まいが村まで会いに行ってくれて嬉しかったというメッセージを見ると、あながちこの旅も自己満足だけではなかったかなと思えた。

眠るアジア -その4

 わたしは寝台列車が好きだ。

 これまでの寝台列車の記憶には、いずれもちょっとしたピンチがついて回るのだが、そのために印象的な乗り物として心に残っている。今回も何とか無事バンコクまでは辿り着けそうだ。途中の駅からは、同じくバンコクでテニスの大会に参加するアランおじさんの旧友も加わった。駅で止まるたびに、かごを食べ物でいっぱいにした売り子がやってくる。ナイトバザールが盛り上がっている町もあったし、田んぼの中に駅だけがあるような閑散とした町もあった。決して速いとは言えないこの寝台列車は、ゆっくりゆっくりタイ南部の町を通り過ぎていった。

 

 翌朝、食堂車で朝食を済ませて戻ってくると、2つ先のブロックで日本人女性2人とマレーシア人の女性が話していた。2人が日本人であることは、列車に乗ってすぐ気づいていたが、だからといって話しかけることもない。自分の席に戻って本を読み始めたが、どうも気になる。マレーシア人の女性が話しかけることに2人は曖昧な相槌を打つだけで会話とならない。わたしも英語に長けているわけではないので、加わったところで曖昧な相槌を打つ人数が増えるだけかもしれないし、話しかけるのには勇気がいる。だけど、女の子の友達が欲しかった。女性同士でおしゃべりがしたかったし、ここで日本人の友達ができるのは楽しいかもしれない。それからも数十分は迷っていたが、意を決して本をしまうと揺れる列車の中を歩いて行って片方の日本人女性に話しかけた。おそらく、彼女たちもわたしが日本人であることには気づいていたようで、特別驚いた様子はなかった。しかし、わたしの問いかけにも聞かれたから仕方なく答えている様子が明らかに見て取れた。マレーシア人の女性はわたしに気がつくと、イミグレーションは大丈夫だったかと尋ねてきた。昨日、慌てふためいていたのを見ていたらしい。アランおじさんが助けてくれて何とかなりました、焦りましたと話し始めたのを見て、日本人の2人は通路を挟んで逆の席へと移ってしまった。彼女たちは、目の前のマレーシア人女性とも、わたしとも、話したくなかったのだ。4人でおしゃべりができたら、日本人の友達ができたらという空想は一瞬で消えた。

 向かいにいる友だちとは日本へ帰ってからも話せるじゃないか。このマレーシア人の女性とはこの列車の中だけでしか話せないのに、何故話そうとしないのか。

 どうして、わざわざのろのろ進む寝台列車に乗っているのか。

 どうしてマレーシアなのか。

 どうしてタイなのか。

 たくさんの疑問と、悲しさと、悔しさとが、駆け巡った。その時は、悲しい気持ちが一番強かったが、今にして思う。あの2人とわたしもまた、求めているものが違っていただけなのだ。その後、2人は話すことも止め、それぞれのスマートフォンの画面に吸い込まれていった。

 わたしはフェリシアとたくさんの話をした。フェリシアは20歳以上も年上で、今はタイの大学で勉強をしている。仕事の話、お金の話、美容の話、わたしの英語はどれも拙かったけれど、それでも語り合ったという実感があった。アランおじさんはバンコクの少し手前で降り、フェリシアともバンコク駅で別れた。ここから安宿街として有名なカオサン通りを目指す。客引きを振り切り、人に道を聞き、迷いと繰り返して、車の騒音と溢れかえる人でごった返すカオサン通りに着く頃には、チャオプラヤ川を上る船で揺れた拍子に全身水をかぶった服も乾き始めていた。

 

 タイへ入ってから、およそ公と名の付くところには、ほぼ必ず亡き国王の写真と献花台が設けられていた。駅や寺はもちろん、道路にもあちこちあった。バンコクで商売している人の多くは黒い服を着ていたし、露店でも多くの黒い服が売られていた。とはいえ、日本の11月と違ってタイの11月はTシャツ1枚で過ごせる陽気なので、喪服というよりはいつも着ているTシャツや長袖を黒いものに変えているようだった。カオサン通りでは、観光者向けに安全ピンに着いた黒いリボンを配っていて、ひとつもらってタイ滞在中はTシャツの袖にずっと付けているようにした。バンコク滞在2日目には、王宮前広場でセレモニーがあり、喪服を着た多くの市民が国王追悼のために列をなしており、亡き国王の人気の高さが窺える。セレモニーの翌日からは、黒い服を着ている人も少しずつ減っていった。

 

 タイへは11年前に一度来たことがある。通っていた高校とYMCAの共同企画で、タイ北部の小学校に図書館を建てるツアーに参加して、一週間ホームステイをした。その家族のひとり、チネがバンコクで働いているのだ。家族とはずいぶん昔に連絡が途絶えていたが、去年、どうやって探したのかfacebookで突然チネから友達申請が来た。最初、知らない外国人からのスパムだと思って無視していたら何通もメッセージが届くので、おそるおそる返事をしたらチネだと分かった。アイコンの写真と、11年前の少女がまったく結びつかず、ふくよかな点を除けばチネは驚くほど美しいお姉さんに成長していた。チネは大学で溶接を教える仕事の傍ら、自らも学生として勉強を続けていた。2つ年上の彼氏であるチョーンと一戸建てに住んでいて、家の内装などは2人で手がけ、いま、まさにつくり途中なのだと写真を見せてくれた。わたしはてっきり、チネはモデルか何かだと思い込んでいたので、びっくりしっぱなしだった。

 2人はとても優しかった。屋台にごはんを食べに行き、休日はサメサン島にあるビーチや、パッタヤーの水上マーケットにも連れて行ってくれた。懐かしい友人をもてなすといっても、ここまでしてくれるものなのかと思うくらい、2人はどこまでも優しかった。ひとりで過ごしている時も楽しかった。アユタヤにも行ったし、バスを乗り違えて1時間半歩いて帰る羽目になった時も、いろんな町の顔に出会えたし、買い物にもだいぶ慣れてきた。数日後には、ホストファミリーが住むタイ北部の村も訪れるし、すべては順調に思えた。

 その夜だった。ある人から一通のメールが届いた。

 「岸本様 唐突のメール失礼いたします。先日、軽くお話ししたとおり、今回の仕事お願いしたいと思っております。その件に関して、色々とお話ししておく情報などありますので、一度ご連絡頂ければと思います。」

 

 忘れていたわけではなかったが、考えていなかった。今回、時間をかけて考えたいと思って、大好きな監督の誘いを断ったのは、まさにこのことについて考えなくてはいけないからだった。正直に言えば、このメールをくれた会社の入社を、わたしは一度断られている。迷っているのは、一度断ったくせに今更は入れるかという怒りではなく、本当にこの道に進んでいいのかという迷いがあったからだ。

 それを考えるには時間が必要だし、仕事をしながらではできないと考えたわたしは年明けに答えを出すと自分に約束して年内いっぱい働かないことを決めたのだ。

 そのヒントを探すための、この旅なのだ。

 すぐには返事ができなかった。けたたましくなるクラクションと往来する人の声、そしてすぐ下のベッドで愛し合うカップルのあえぎ声に思考を遮られ、バンコク最後の夜は眠れないまま時間だけが過ぎていった。