陰を慈しむこと

谷崎潤一郎の『陰影礼賛』を読んで、
ひさしぶりに胸を締め付けられる感覚を覚えた。


日本はもともと陰の文化である、
というのがこの本のおおまかな内容になるわけだが、


この陰というものを大切にする、
陰を愛でる、というその感覚がとても染み入った。


元来、私は陰の人間で、
そうとは知らなかったという人もあるかもしれないが、
私をよくご存知の方なら分かると思う。


この陰に寄り添った生き方ということに関して、
最近とても印象に残っている言葉がある。


卒業制作の講評の時に、
ある生徒が「自分は美術に向いていない」という言葉を発した。


それに対して先生が
「美術に向いていない、美術に適さないと自分を見つめ続け、苦しみながら美術に向き合い続けているあなただからこそ、美術に向いている」
というようなことをおっしゃった。


それは、わたしにとっても苦しく優しく響いた


私はいままで映像作品を3度しかつくっていないけれど、
そもそも、前向きな気持ちでつくったことなどなかった気がする


とにかく強烈に何かに対してやるせなさを感じたり、
虚しさを感じたり、


そういう自分の中に黒々と渦巻いているものがあるとき
それが作品をつくる原動力となる


前向きに行動的になっている時は
その状況そのものに満足しているからそれを吐き出すことなどない


悶々と頭を抱え、同じところを何度も何度も行き来し、
どうにも言葉で言い尽くせない陰を自分の中に抱えたとき
初めてそれが作品となる


ものをつくる、とはそういうことだから決して楽しいだけでは済まされない


作品をようよう仕上げてその時だけは「どうだ!」と思ってみても
誰かの目に触れたとたん、
自分は何でこんな恥さらしな真似をしているのだろうと
再び言い様のない黒々とした気持ちが戻ってくる


私は映画をつくるのが好きではない


見るのは好きだけれども、多分、本当はつくるのは好きではないのだと思う


それでもなにか自分の中の陰を外に出すとき、
それがどうしても映画という媒体となって出てくるのは
生身の人間が陰を光に変えていく瞬間を
目の前で、自分の目で見たいからなのかもしれない
だから私は人間関係とか日程集約とかの面倒なことを差し引いても
生身の人間を撮りたいと思うのだろう


自分の中に陰があることを疎まないこと
陰の中にあるからこそ浮き出てくるものには鈍い光がある
それは眩しくもなければきれいでもないが
だからこそよく目を凝らし、近くまで行かないと
そのものに気付くことができない


陰のある自分を慈しむのではなく、
自分の中に陰のあることを慈しむこと
きちんと最期まで自分の陰に付き合うこと


表現をするということはそういうことなのではないか、


谷崎潤一郎の「陰影礼賛」はそう語りかけてきた。