深夜タクシーの窓から

タクシーがゆっくり旋回し、
オレンジの光をなぞりながら料金所へと向かう。

窓に映っては後ろへと流れてゆく光を見ながら、
吸い込まれるようにシートに沈んでゆく。

この光景が、いつもの光景になっているこの頃。



それほど自覚はなかったのだけれど体は実に正直で、
手のひらや指先に発疹ができてはかさぶたになる。

小さい頃からこれがサイン。

これが出たら、ああ疲れているんだな、と思う。


最近は仕事をしていても抜けが多い。
しまったと思うタイミングが多く、単純にキャパシティーを越えているようだ。


だからといって、決して仕事が嫌なわけではない。
楽しいことは楽しい。


とはいえ、肉体的疲労が限界に達すると、
溢れ出た分が今度は精神的疲労になだれ込む。

すると、いつもなら笑って許せることが少しずつ気になってきて、
自分の中にぐっと引っ込めることができずに表情に出てしまう。


ああ、自分はこんなことでは決して苛立たないはずなのに!


しかし、おそらくこれから先、時間的余裕はむしろどんどん無くなっていくだろうから、
そういう時に備えて少しずつ自分のキャパシティーを広げていくしかないのだ。


キャパシティーを広げるには、猿真似が手っ取り早い。


尊敬できる人の真似を片っ端からしてゆくのだ。


ある人の鞄には、やたらと台本がいっぱい入っていて重かった。
それをとりあえず真似して自分も鞄に台本をいっぱい入れてみる。

すると、台本を手に取る機会が増え、物語を読み込もうという意識が芽生えた。


ある人は常に副調整室の後ろの席に座っていた。
それをとりあえず真似して自分も隣に座ってみる。

すると、今まで関わりのなかった人と会話が生まれ仕事がしやすくなった。


ある人は時間さえあればタバコを吸いに行っていた。
それをとりあえず真似して自分もたまにタバコを吸ってみる。

とくに何もなかった。


そういった具合で、
てぬぐいを首に掛けてみたり、パチンと指をならしてみたり、
とにかく片っ端から真似をする。


中には意味が分かるものも分からないものもある。
意味のないものもある。

でも、それは結局真似してみないと分からないことだ。


そうやって、馬鹿の一つ覚えでいちいちやってみたことによって、
たまたま発展してゆくものもある。


それを見つけるのが最近はちょっと楽しいのだ。



タクシーの窓に、重い鞄を膝に乗せてシートにもたれかかる自分が映る。

ここを何度も何度も通るうちに、きっとこの鞄の中身も変わってゆくだろう。

それは、窓に映った外身からは決して分からないけれど、

きっと自分にだけ分かる違いがそこにはあるはずだ。



そんなことを考えながら、今夜も料金所をくぐり抜けてゆくのだ。

突風の吹き抜けたあと

もうすっかり季節は春になったけれど

そのもう少し前の、早春といわれる季節がいちばん好きである。



朝と晩がまだ少し肌寒く、

あたたかい日差しの中にも突風が吹き荒れるような、

あの季節が一番好きだ。



冬の間、息をひそめていたものたちが目を開け

新しい季節が始まったことを色と匂いで教えてくれる、

そんなこの季節はとっても嬉しくなる。



すべてをなかったことにするわけではないけれど、

様々なものが芽吹いてくるのを見ると、

自分自身もまた仕切り直しをすることが出来る。



いいことも、わるいことも、

すべてを一度スタートラインに戻して、

それから始めることが出来る。


歳を重ねながらも、生まれ変わるような気持ちになる。



早春は、意外と優しくない。

頬を撫でるような、そよ風が吹くのはしっかり春になってから。



そこら中を掻き乱し、巻き散らかすような突風が吹き抜けて行ったあとは、

草花も、日の光も、わたしも

むりやり叩き起こされたようで目をぱちくりしてぼんやりしてしまう。



でも、そのあとにいそいそと自分の仕事に取りかかり、

一気に景色が色づくのだ。

それが、春になるのだ。



毎年思う、

ああ、なんていい季節に生まれてきたんだろう。

ゆとりの結び

「最近のコは、仕事が辛いとすぐ辞める」
「20代のうちに、仕事をコロコロ変えると30代になってから後悔するよ」

これは、前の会社の上司に言われた言葉。

半分は合っているけれど、半分は間違っている。




今年の秋、昨年五月に入った会社を一年ちょっとで退職し、転職した。




いまの仕事は前職に比べて就業時間も比にならないくらい多いけれど

それでもこの三ヶ月、一度も明日が憂鬱になることはなかった。



それまで、毎日毎日誰もいない暗い部屋に帰ってきては

洋服の袖をぐしょぐしょに濡らし、

時には自転車を漕ぎながら、

人目も憚らず涙していた日々とは打って変わり、

目の下のくまがとれなくても心持ちだけは晴れやかなのだ。



初めて「仕事を楽しいと思って何が悪い」と思った。



その先に目的があって、そのために今を辛抱するならば、それは必要なことだ。

しかし、辛抱すること自体が目的になってしまうのならば、やめた方がいい。



人には、するべき苦労としなくていい苦労がある。



わたしはこれまで、これといった苦労もなく過ごしてきたために、

初めて出会った苦労に、これぞ苦労なのだと思った。

初めての苦労の日々に、苦労をしているいまこの時こそ美徳なのだと思った。



しかし、

苦労をしているから素晴らしいなんてものは嘘だ。



苦労をするその先に、希望を見るからこそ美徳なのだ。

何の目標も目的もなしに苦労に甘んじているのは、ただの馬鹿である。

それは、結局楽しているのと同じなのだ。



先日、いまの職場の先輩に「将来の夢は何?」と聞かれた。

当たり前のように、そう聞いてくれたことが嬉しかった。



仕事をしている。

それは、決してゴールではない。



仕事をしてるという基盤に立った上で、

その先に何を見るのか。



何を夢とするのか。



わたしは辛い仕事を辞めた最近のコかもしれない。

辛いから辞めたのは事実だけれども、辛いだけで辞めたわけではない。

次に掴んだこの仕事に、ぶらさがってでも喰らいついてやる。コロコロなんて変わるもんか。

「だから言わんこっちゃない」なんて死んでも言わせない。

そのくらいの覚悟はもって辞めた。



ゆとり世代だの、さとり世代だの、馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。

あのタイミングで退職したことに、いま一点の後悔もない。



これから仕事で苦労したとしても、いまはその先があるからきっと大丈夫。



何不自由なく育ったゆとり世代でも、そのくらいの気概はある。

そんなことを、この先日々の仕事の中で体現して見返してやりたい。



「仕事を楽しいと思って何が悪い」



そう思えたことが、平成生まれ・ゆとり育ちのわたしにとって、

今年一番の収穫であり、本年の結びにふさわしい結論だった。

石の上にも

たとえ疲れていて家が少し遠く感じても

自分の家で寝るのが一番体も心も休まるものだ



20分も電車に乗れば実家へ着いてしまうところへいて、

1時間半かけてこの家に帰ってきた



一年経って、やっとここが自分の家になったのだな、と思う



大学4年のときからぼちぼち続けているアルバイトも

ボランティアで参加していた映画祭も

3年目になってようやく慣れてきた



1年目にはただただ身の置き所もなかった場所が

2年目で少しずつ間合いを取れるようになって

3年目でようやく気を許せる場所となっていく



石の上にも三年というけれど、あれは本当のことだなと最近身に沁みて思う



周りの人には「東京もあと1年くらいで充分かな」と、よく冗談で話すけれど

きっと3年いてようやく東京にも慣れるのかもしれないと思うので

もう2年はいようと思っている



今年24歳になって、干支が二周りした

社会に出てみてようやく自分のことがうっすら分かり始めている



でも、自分と気のおけない仲になって付き合っていくにはあと一回りかかりそうだ

北からの電話

それは4年前のこと、

友人と岩手旅行へ出かけた。

その時に泊まったのが北上で、名物は里芋を使った北上コロッケだった。

わたしも友人も食べ物には目がないので、もちろん北上コロッケを食べることになった。

そして、たまたま入ったのが大安楼だった。



翌日のプランも決まっていなかったので、

女将さんに岩手の名所を聞くといろいろと教えてくれ、

終いにはご主人まで厨房から出てきて一緒に翌日のプランを考えてくれた。

しかし、まだ教え足りないと思ったのか、

お店が終わったら迎えにいくから宿で待っているようにと言われた。

わたしたちは宿の場所を伝え、とりあえず大安楼を後にした。



ご主人は本当にわたしたちを迎えにやってきた。

案内されるままご主人についていき、

行きつけのお店でご主人のオススメの料理をたんまりとご馳走になった。

すでにコロッケを食べていたこともあり、何を食べたのかあまり覚えていないけれども

ご主人が勧めてくれた、お皿いっぱいの生ガキが

目玉が飛び出るくらい美味しかったのだけは覚えている。

そのあと、女将さんも合流し

今度は場末のパブに連れて行ってもらった。

わたしも友人もパブに入るのは初めてで、

大人の香りのする仄暗いネオンに、なにかドキドキしたりした。

ママのいるお店で、チープなつまみを齧りながら4人でカラオケを歌った。

歳もだいぶ離れているので、互いの歌う曲が分からなかったりしたけれど、

友人の歌った「いつでも夢を」だけは、みんなで歌った。



翌日、花巻・遠野・盛岡とかなりの強行スケジュールで名所らしい名所は廻ったけれど、

正直、前夜の北上での思いがけない出会いを前には

宮沢賢治柳田国男もまるで歯が立たないのであった。


そんな素敵な思い出をお土産に、わたしたちは東京へ帰ってきた。

なにかお礼のお菓子でも送りたいと思ったけれど、

あんなに美味しいものをつくる人に送ることのできるものなんてないことに気づき、

代わりに北上の思い出を絵ハガキにして送った。



その2年後、震災があった。

岩手の惨状を知って、まず大安楼のことが気にかかった。

ハガキを送ろうと思ったが、住所を書いた紙をなくしてしまっていた。

電話をかけようと思ったが、線が繋がっていないのでは?避難しているのでは?

と、いろいろな考えが駆け巡り、そのまま慌ただしい日々に飲み込まれるように

大安楼のことも薄れていってしまった。



また2年の年月が過ぎた。

携帯が鳴り、ふと見ると妹からのメールだった。

岩手に旅行に行くという。

ふわっと、またわたしの中に大安楼のことが蘇ってきた。

北上に寄るか聞くと、寄れたら寄りたいという。

わたしは大安楼のご主人と女将さん宛の手紙を書き、

もし寄ることがあったらお店に持って行ってほしいと妹に渡した。



そして今日。

仕事が終わって携帯を見ると知らない番号から電話が着ていた。

留守電も入っている。

誰だろうかと留守電を聞くと、驚いたことに、大安楼からだった。

すぐに電話をかけ直した。出たのはご主人だった。



ご主人と女将さんの元気な声が受話器からこぼれる。

その人柄が、電波に乗ってこちらに伝わってくる。

詳しい話は聞かずとも、妹も暖かい歓迎を受けたことが容易に想像できた。



4年も前の一夜限りの出会いが、

いま、こうして再びこころを暖かくする。



旅は、場所ではない。

旅は、人である。

夏の訪れ

着ている服がべったりと体にまとわりつく

じんわりと吹き出た汗で肌がギラギラしている

雷鳴が轟きスコールのような雨がやってきて

去って行った

ああ 夏がやってきた



ガラス一枚隔てた涼しい部屋で

車輪のついたベッドに横たわり

父が寝ている

数日前までついていた無数の管が外れ

包帯を何重にも巻いた足を投げ出している



車椅子も松葉杖も上手く使いこなす父を見て

もう4度目になる入院生活だということが

ことばではなく実感として感じられた



あまりにも淡々としているため

もう不便なこともないのだろうと思っていると

父が髪を洗いたいと言い出した

母は父が車椅子に移動するのを手伝うと

勝手知ったる顔で洗面所へと付いていった



父は車椅子を洗面台に近づけると

すこし体をかがめ「ここまで」と言った

すると母がシャワーのノズルを引っぱりだし

父の頭を洗い始めた



大学生の頃、熟年離婚というドラマが放映されていて

我が家もいずれは、とわたしは本気で心配していた

その頃、確かに母は父の悪口ばかり言っていたし

父もまたそれにうんざりしている様子だった

たまたま、母の友人が我が家に遊びにきていた時にそのような話になり

お酒が入っていたこともあって、わたしは心中を吐露し

さめざめと泣き出した

母は電話かなにかで他の部屋へ行っていたようだが

戻ってくるとわたしが周りの大人に慰められて涙をふいているので

何が起きたのかと思ったらしい

会がお開きになったあとで、なぜ泣いていたのかと聞かれ

日頃感じていたことをぽつりぽつりと話しだすと

母は涙声になって「変な心配させてごめんね」と言った



その一年後、父と母はふたりで伊勢神宮へ旅行に行った



わたしはぐわんぐわんと鳴る乾燥機の音を背中に聞きながら

母が手際よく父の頭を洗うのを見ていた

そして、目の前のふたりが夫婦であることを感じていた



ガラス一枚隔てて熱気がわたしの体を包む

着ている服がべったりと体にまとわりつく

雷鳴が轟きスコールのような雨がやってきて

去って行った



ああ 夏がやってきた

あたらしい夏

2年半前の父の入院当時、

お見舞いの品として持って行った沢木耕太郎の『無名』は

結局読まれないまま実家の本棚に収まっていたが

今回、父の検査に付き合い

病棟で父を待つ間はじめてその本を開いてみた。



それは奇しくも、沢木の父が病気で亡くなった際の話だった。



父のいのちに別状は無いとは分かっていても、

このまま回復すると言われ続けて

見つかってしまった今回の再発だったため

沢木の父親の病気、そして死の話は

わたしにとってあまりにリアルだった。



わたしはこれまで近親の死に目に立ち会えたことがない。

いつもその訃報を聞いてあわてて電車に飛び乗って帰ってくるばかりだ。

今回はそんなところまでいかないと

信じてはいるけれども

その時はこの先間違いなくやってくる。

その前に父の話をきちんと聞いておきたい。

そんな思いもあって、父の検査にひとり付き合った。



そこは大学の付属病院だったため、

となりの校舎にはおおきな学生食堂がついていた。

わたしたちはそこで昼食をとった。

午前の講義を終えた学生たちが、どっと食堂へ流れ込んでくる。

それを眺めて「大学生か、すでに懐かしいな」とつぶやいた私に

父は「やり直すなら、高校生からがいいな」と応えた。



わたしは、少し間を置いて聞いてみた。

「高校生からやり直したとしても、やっぱり今と同じ道を選んでたと思う?」



父は少し考えていたが、

「たぶん、同じことをしていたと思う」

と言った。




「会社に勤めてモノを売ったりしている姿は想像できないし、

やっぱりモノをつくったり、人に何かを教えたりすることを選んでたかな」



午後の診察までの待ち時間は3時間ほどあり、

わたしたちは近くの商店街をぶらぶらと歩いたり

駅近くの喫茶店でコーヒーをすすったりして時間をつぶした。

これほどゆっくりと父と過ごすのはいつぶりだろう。

父はあたりを眺めながら、東京に住んでいた頃を懐かしがっていた。



『無名』を読みながら、いろいろと込み上げてくるものがあった。

今年、七回忌を迎える祖父のことを思い出した。

近ごろ何かと弱気な祖母のことも引っかかっていた。

遺伝を気にしている父のことも、気がかりだった。

あらためて自分の家族のことを考えてみた。

家族に対して、思いを馳せてみた。

おそらく初めて、孝行したいと思った。



ことしの夏も、どうやら長くなるらしい。

わたしにとって、これまでと違った夏がやってくるのだろう。