霧の中の街 ーその3

現代版小田実なる青年曰く、渡り歩いて一番素晴らしかったのはベトナムらしい。

その次に良かったのが、フィリピンで、とにかく物価が安いのだとか。

たしかに、彼の歩いてきた国々に比べると、香港は決して安上がりな国ではない。

物価で言えば、日本とほぼ同じだろう。

コンビニで売っているものも、スーパーで売っているものも、日本の値段と変わらない。

彼はお金がなくなると、現地の人に混じり客引きをしてお金を稼いでいたようで、

英語は問題なく使えるし、聞き取るだけならばかなりの国の言語が分かるそうだ。

それだけ言葉を操れるようになると、旅をしていてもさぞ楽しいことだろう。とても羨ましい。

将来は何になりたいのかと聞いたが、自分でもまだ分からないそうだ。

真っ当な道に進むならシステムエンジニア、そうじゃないなら観光ガイドかな、と彼は言った。

ただ、日本で働けないような気がします。息が詰まりそうになるんです。

大学の学費も自分で払っていると言う彼には、日本はもう、狭すぎるのかもしれない。



ラッキーハウスに帰ると、2段ベッドの下でおじさんが荷解きをしていた。

そういえばさっき青年が、旅慣れた日本人のおじさんがひとり来ていると言っていたっけ。

あたかも、旧知の仲のような口調で話しかけてきたおじさんとしばらく話していると、

ソフトクリームを食べに行っていた青年も戻ってきて、また旅の話が始まる。

二人は、私など到底思いもよらないような体験を山ほどしていた。

話が収束するかと思うと、次の話題に移り、聞いているだけの私はだんだんと眠くなってきた。

しかし、ベッドで話しているものだから抜けるにも抜けられず眠気と戦っていると、

おじいちゃんがあまり遅くまで起きているもんじゃないと一喝しにやってきて、

1時近くまで続いた旅談議は、ようやく終わったのだった。



翌朝は、8時に起きた。

シャワーを浴び終えて宿を出るとき、青年の名前もおじさんの名前も知らなかったことに気付く。

まあ、それもいいだろう。そういう出会いと別れも、旅にはつきものだ。

朝食は、昨日市場で房ごと買ったバナナを食べて済ませた。

マカオ行きのフェリー乗り場へは、道に迷いながらもなんとか乗り込み、

思った以上の揺れで気持ち悪くなり座席で丸くなっているうちに、すぅっと眠ってしまった。

マカオのバスはなんともややこしかったが、周回しているのでそのまま乗っていれば元の場所へと戻ってくることができる。

目当てのバス停の名前が出てこないので、寝ぼけ眼でぼんやりしていたら、終に元の場所まで戻ってきてしまった。

マカオはタイパなど離島をのぞけば、一日で十分まわれる大きさで、

老舗の点心の食堂以外は行くと決めていた場所も特になかったので、いつも通り徒歩中心でぶらぶらとした。

マカオの学生は眼鏡をかけている子が多かった。しかも、みんな同じ眼鏡だ。

髪型も、女の子は一様にポニーテール。ショートヘアの女の子は、なぜか少ない。

女の子も男の子も、友達とおしゃべりをしてはしゃぎながら下校する様子がとっても楽しそうで、

思わず横断歩道越しにカメラのシャッターを切っていた。



マカオの地図を眺めていて、ふと、ちょっと先には中国本土が広がっていることに気付く。

そうだ、国境を見に行ってみよう。

しかし歩いても歩いても、なかなか目的の場所に出ない。

手元の地図は香港がメインで、マカオはざっとした地図しかなかったので、

標識でどの通りにいるのかは分かっても、地図上でいまどこにいるのかが全く分からなかった。

道ゆく人に、ここはこの地図でいうとどこかと尋ねたのだが、どういうわけか要領を得ない。

そろそろ歩くのにも疲れてきた頃、行く手に交番を見つけ、ようやく国境際までの道を聞くことができた。

対岸には大きなビルが建ち並んでいた。

曇りだったからか、向こう岸の大国は近いはずなのにぼんやり霞んでいる。

霞の中に見える中国は、やはりどこかスケールの大きさを感じさせた。

前日の街歩きと、朝の迷子、そして国境探しとかなりの距離を歩いていたので、

自他ともに認める健脚の私も、この頃には脚を引きずるほどになっていた。

マカオに来たらカジノに行こうと思っていたのだが、とてもそんな元気はない。

脚を撫でさすりしながらお土産に中国茶葉の店、

世界遺産の聖ポーロ大聖堂跡と大砲台を見て回ると、もう帰ろうという気分になっていた。

昼料金の最終便である17時半のフェリーに乗るべく帰路を急ぐ。

しかし、この帰りのフェリー乗り場で、危うくカモになりかけるという事件は起きた。

霧の中の街 ーその2

朝7時起床。外は相変わらずの霧雨だった。

この日は、8時から始まるという太極拳の体験に行くことだけ決めていた。

シャワーを手早く浴びて、さっさと出かける。

太極拳も1時間くらいで終わるだろうから、それから換金して朝食を食べて宿代を払いに戻ればいい。

重慶招待所を出ると、街はすでに活気づいていた。



ネイザンロード(彌敦道)を下って海沿いまで出ると、プロムナードでの太極拳は早くも始まっていた。

ジェスチャーで混ざりたいと伝えると、最近、無料だったのが50HK$になったのだと言う。

香港ドルを持っていないので、終わったあとに換金して払うのでもいいかと尋ねると、

それでいいと、快く仲間に入れてくれた。

太極拳を体験していたのは、常連と思われる近所の人、香港在住らしき欧米人、

そして春休みの旅行で来ているのか、日本人の大学生の男の子5人くらいを合わせ、十数人いた。

見よう見まねで先生の後追いをするのだが、腰を落として動くので太ももが疲れる。

小一時間もやったところで、終わりかな?と思っていると、次はカンフーに移ると言う。

太極拳も2パターンくらいやったのに、カンフーも2パターンほどやったあとで、集合がかかる。

さて集金だろうと、おのおの財布を取り出そうとすると、まだだと言って、先生は扇を配り始めた。

扇の開き方、手首の返し方を一通り教えてもらうと、今度は扇を使った太極拳に移る。

すべてのメニューが終わって時計を見ると、3時間近くも太極拳をやっていたことに気付く。

どうりで、足も痛くなるわけだ。

3時間もいろんなパターンの太極拳をやって750円なのだから、だいぶ得した気分である。

しかし、思ったよりも長時間だったので、急いで換金しに走り支払いを済ませると、

朝食は後回しにして、宿に戻ることにした。



この日は主に、尖沙咀から旺角までを巡ることにして、めぼしいところを順繰りに回った。

病院内にある美術館や、漢方の診療所内にある展示など、一風変わった展示施設を周り、

商店の中にある豆腐屋で間食を取るなど、街歩きを楽しんだ。

香港の通りには、すべて英名がついている。

ネイザンロード、サルベリーロード、プリンスロード…

どんな小さな通りも中国名と英名がついているので、地図で自分がどこにいるのかがとても探しやすい。

そして、どの通りにも必ずと言っていいほど、換金ショップがあるのだ。

30メートルも歩くと、すぐにつぎの換金ショップにぶつかる。

換金ショップの他に、ビルの壁に自動換金機やATMが埋まっていたりして、とにかく換金に不自由は無い。



夜は、廟街の屋台で夕食にしよう。それなら宿は近い方がいい。

とりあえず、手頃な金額で泊まれる場所を探そう。

廟街の近くには、これまた多くのゲストハウスがあったので、

目に入ったゲストハウスへ、とにかく入ってみることにした。

わたしは、こういう時の勘だけは、やたらといい。

2軒目で目に入ったのが、幸福民宿(ラッキーハウス)だった。

看板に「ラッキーハウス」と書かれていたので、日本語も通じるだろうと入ってみた。

対馬さんという日本人のおじいちゃんが経営するラッキーハウスは、全室ドミトリー。

部屋というよりは、空間を間仕切りで仕切っただけで、簡易な2段ベッド。トイレ・シャワーは共同。

1泊120HK$という安さだが、今日は空きがないと言う。

チェックアウトの時間になったらベッドがひとつ空くかもしれないというので、

リュックを預けて外をぶらぶらすることにして、

戻ってきた時に、もしベッドが空いたら入れてほしいと頼んで、廟街を見に行った。

廟街をぶらつき、天后廟も見て、それでもまだ時間があるので、香港島に渡ろうと地下鉄に乗る。

歴史的建造物も、話題の飲食店も見て回ったけれど、一番面白いのはどこでも市場である。

上野のアメ横センタービルさながら、スッポンや鶏の脚が売っている。

魚は生きたまま鉈包丁でまっぷたつ、血が滴るのをそのままに、並べてある。

グロテスクという言葉も超えて、活力を感じた。

新鮮という言葉を当てはめるのも、チープに思えるほどだ。

一番驚いたのは、生きた鶏をそのままケースで売っていたことだった。



朝から歩き回ったので、さすがに疲れてきた。

携帯の万歩計表示を見ると、優に30000歩を超えている。

雨脚もやや強まり夕方6時を過ぎたので、ラッキーハウスに戻ることにした。

戻ると、結局ベッドは空かなかったらしい。

しかし、ここでいいなら寝てもいいとおじいちゃんが指差す場所は、入口近くの間仕切りもない2段ベッド。

下はおじさんが入るし、部屋でもないから上の段でよければ60HK$でいいと言う。

900円で寝れるなら何も文句は無いと、今夜はここで荷解きをすることに決めた。

お金を払っていると、奥からひとりの青年が出てきた。

日焼けした肌、ひとつにくくった髪、ひげ面。あきらかにバックパッカー的風貌だ。

ぺたぺたとサンダルで近づいてきた彼は、おじいちゃんに日本語で話しかける。

日本人だったのかと、ようやくそこで気付く。

どちらからともなく話しかけ、外をぶらつくと言うので一緒に廟街へ行くことにした。

去年の春にオーストラリアへワーホリで渡ったと言う彼は、

そこからインドネシア、フィリピン、カンボジアベトナム…とアジア各地を渡り歩いてきた

まさに現代版小田実のような青年だった。

霧の中の街 ーその1

リュックサックにTシャツ3枚、ズボン1枚、下着と靴下を入れて、成田を出国したのが3日の夜。

霧雨の降る海沿いの街に着いたのは、4日になったばかりの深夜だった。

財布の中には、日本円で3万円。4日間の滞在には充分な額だ。



空港内のコンビニで「オクトパス」と呼ばれる、日本でいうsuicaをクレジットで購入し、

近くにあった自動換金機でいくらか両替してチャージすると、

「把士(Bus)」と書かれたターミナルから、N21のバスに乗って市街地へ向かう。

目指すは格安ゲストハウスがひしめくビル、重慶大厦だ。



香港の街は、霧雨が降っていた。

深夜3時をまわっているというのに、街には人が多く行き交っている。

2階建てのナイトバスから眺める香港の街は、妖しさに溢れて魅惑的だった。

昼間は大勢の観光客や買い物客でごった返すという重慶大厦も、いまはひっそりとしていて、

中東人と思しき男たちが数人ずつ、階段やエレベーター前でたむろするのみだ。

薄暗いビルの中で見ると、正直、一緒にエレベーターへ乗って大丈夫だろうか、

と不安を抱くような異様さがあるのだが、向こうも私のような旅行客は相手にしない。

目当てのドラゴン=イン(龍匯賓館)には、昼間、日本から電話で

「深夜に着くから一部屋キープしておいてほしい」と話し、

電話口の女性からも「着いたら電話してくれれば入口を開けに行く」と言われていたのに、

何度電話しても営業時間外のアナウンスが流れるのみで、ノックしても反応がない。

街の中には24時間営業のマクドナルドもあるし、お金をかけずに朝を待つこともできたのだが、

とにかく重慶大厦に泊まってみたかったので、

いつでもチェックインができるという重慶招待所に行ってみることにした。

入口のソファで寝ていたおじさんは、一晩泊まりたいというと「350HK$だ」と言う。

ただのゲストハウスにしては高い。しかし何よりも寝たかったので、交渉せずに払うことにした。

しかし、まず香港ドルを持っていない。

明日の朝払うから待ってくれと話すと、日本円をいくらか置いておけという。

とりあえず逃げる気は無いとの意思表示に、2000円だけ渡して鍵を受け取った。

部屋はかなりお粗末なものだった。何も意外なことではなかったので驚きもしなかったが、

こんな宿にタオルが常備されているわけがないことを忘れていた。

群馬のホテル暮らしにすっかり慣れきっていたわたしは、タオルを持ってきていなかった。

何か間違ってありやしないかと見回すと、継ぎはぎしてあるタオルを見つけた。

これが宿で用意したものなのか、忘れ物なのかも定かではなかったが、そんなことは関係ない。

当たり前だがドライヤーも設置されていないので、その晩は顔だけ洗って寝ることにした。

寝っ転がったベッドでは、体のあちこちが痒くなったのは言うまでもない。

香港はじめての夜は、ベッドバグのいる床で更けていった。

雪の庭

今朝、あれだけ舞っていた雪はどこへ行ってしまったのだろう。

縦横無尽に飛び交って、黒いアスファルトをあっという間に白く染めた雪は、

昼過ぎには冷たい雨と共に消えてしまった。

夜には雨も止み帰宅の途につきながら、あっという間の雪だった、と思う。

明日で一月が終わる。一月も、あっという間だった。



あとひと月ちょっともすれば、今の班の仕事が終わる。

毎日、「早くこの仕事が終わってほしい」と思っている身からすれば、

ひと月ちょっとも随分と先のことに感じるが、

しかし、そんなことを思いながらする仕事というのは、やっぱり気分が良くない。

今回の仕事では、これまでの自分の流儀がことごとく通用しなかった。

人との折り合いも上手く付けられず、笑顔でいることのできる日がほとんど無かった。

黒々とした気持ちが、自分の中に戻ってきているのを感じて、

この気持ちにはもう会いたくなかったのに、と目を反らしたくなった。

冬という季節も影響しているのか、心も体も重く感じ、

さっぱりした気持ちで日々を過ごすことがなかなかできない。

周りの人にも、ずいぶん迷惑をかけてしまった。



仕舞いには、自分が何に頭を抱えているのか分からなくなり、

あれやこれや分かっていたはずのことが、分からないようになってしまった。

そうして、ぐるりとまわってきたところで分かったのは、

仕事はやっぱり笑顔でするものだ、ということだった。



自分の持っているもの、やりたいこと、ちょっと頑張ればできること、

そして周りの人から求められていること。

それらを少しずつ合わせて、気持ちよくできる範囲のこと。

仕事は楽しいと思うべき、と言ったのも、

今の仕事にしがみつきたいと言ったのも、自分だったと思い出す。



人には人の、自分には自分の天分がある。



その仕事がものになるかどうか、分からない。まだ上手く人にも説明できない。

でも、毎日が楽しくて仕方なかったあのポジションに、もう一度戻ってみよう。

それが自分にとっての唯一無二になるかどうか、決めるのはまだ早い。

雪掻きをしながら、去年の雪を思い返す。まったく違う気持ちで、同じ雪掻きをしながら。

けれども、過去を懐かしがっているだけは能がない。

最良のものは、常に未来にある。



いまの仕事もようやく、慣れてきた。どの時間も無駄ではない。

まだ、抜けきったわけではないけれど、

昼の雨で溶けた今日の雪もろとも、黒い気持ちも、あの庭に置いてきた。

いつかの気持ちに返るために、いま頑張ろう。

再出発

今日、ひとつの仕事が終わった。
去年の10月1日、ドキドキしながら憧れの場所に足を踏み入れたことを思い出す。
それから一年が経ち、週明けには新しい班での仕事が始まる。
そんな節目の時を迎え、再出発を前にして、初心を思い出してみる。

これは一年半前、まだ前の職場で働いていた頃のこと。
今回の仕事の話が持ち上がって、初めて話を聞きにいった数日後、
「あなたがどういう人なのか教えてほしいから、自分のプロフィールを文章で書いてきて」
と言われ、書いた。

文章を送って数日後、「麻衣さんの半生を見た気がする」と言われた。
褒められたのかどうか分からなかったけれど、いま自分で読み返してみて、
確かにこれはわたしの半生記だと思った。

わたしは、ひとつひとつ自分で納得しないと進むことができない。
なぜ自分はそれを選ぶのか。
なぜこうしなくてはならないのか。
ひとつひとつを手に取り、確かめ、飲み込み、また置く。
それをしないことには、一歩だって進めない。それが、わたしなのだと思う。

ここに書かれているのは、わたしが大学に入ってから今の仕事を選ぶまでの半生記であり、
ここから再出発する自分のための、贈る言葉である。


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映画との出会い
 大学では芸術学を主に学んでいましたが、映像の授業を取得したことがきっかけで、映像に興味を持ち始めました。特に映画をよく見るようになり、みるみるうちに惹かれていきました。自分の人生を振り返ることも、見つめることも、生き直すことも、そのすべてがこの映画というメディアには詰め込まれていると感じた私は、この圧倒的なエネルギーが生まれる現場に行きたいと渇望しました。しかし、大学の授業では、映画の歴史や変遷を知ることはできても、まさに人がカメラの前で息づいていく様子や、そこから生まれる熱量を感じることは出来ないと思い、なんとかその近くに辿り着く方法はないかと考えました。そして、「映画芸術」にボランティア募集の文字を見つけた時、その場で受話器を取りました。

映画芸術
 映画芸術では、主にテープ起こし、またゲラ刷りの校正を行っていました。時には、インタビュー取材の同行や、その撮影を手伝うこともありましたが、基本的にはテープ起こしが私の仕事でした。これは何よりの勉強材料で、まずテープ起こしはその題材についてある程度の知識がないと文字に起こすことが出来ません。役者の名前なのか、登場人物の名前なのか。本の題名なのか、映画の題名なのか。表記もまた然りです。音声を文字にする時に、いちいち調べることによって、自分の中に知識として落とし込んでいく。始めはとても時間のかかっていたテープ起こしも、徐々に慣れてくると一定の時間で出来るようになりました。現場への道はまだまだ見えていませんでしたが、時折取材で会う作り手たちの話を聞いては、映画に対する情熱にこちらも胸を熱くし、いつかはこの人たちと、と心躍らせていました。

翳り
 しかし、いくら事ある毎に「現場に行きたい、現場に行きたい」と言っていても一向にその糸口が見えてきません。そうこうするうちに大学4年になり、やや焦りも出ていました。親に「映画は社会に対してどう役立っているのか」と詰問されると、それを論破できるだけの言葉も持ち合わせない。その事にもだんだん自信をなくしていました。もしかしたら、映画が好きで好きで大好きな魚屋でいることも、ひとつの映画への貢献のかたちかもしれないと思った私は、「他の仕事」という選択肢も考え始めました。

映像教育
 その頃、ゼミでは義務教育課程における映像教育について専攻していました。近隣の小中学校に赴いては、美術の授業時間の中で映像を使った授業を行いドキュメンタリーとしてまとめるというかたちでした。これまで美術に恩恵を受けてきた者として、その良さや魅力を伝えるためには身を以て体感してもらうことが一番だと、授業では子どもたちが自分から行動することを促してきました。子どもたちの目の色が変わることで、先生の目の色も変わる。そのことが少しずつ実感として上へ上へ伝わって、美術の授業時間が減っている現状を変えることが出来ればと思っていました。わたしは、自分が感じた感動を次の人にも繋げていくことの喜びを感じていました。

就職
 自分がいいと思ったものを、いいものとして次の人にも伝えていくことを仕事にしたいと思った私は、広告PRの仕事に就きました。いまの会社は、クリエイティブプロモーションやクリエイティブキャスティングが主な業務内容です。日々の仕事では、代理店との連絡やゲストのアテンドなどを行っています。これまでこれといった苦労をしたこともなかった私は、学生と社会人の違いに戸惑いもし、また相当に落ち込んでいました。親元を離れて憧れの東京に出てきたものの、毎晩残業続きで体も心も疲れきっていました。会社は社長を含め5人しかいないため、一人ひとりが重要な戦力です。そのこともあって、会社ではとてもよく面倒を見てくれるし、様々なことを1年目からやらせて頂きました。しかし、まだ映画のことも諦めきれなかった私は、友人たちとグループを組み上映会の企画をしていました。

身の丈
 これまで学生の頃も、様々な活動を並行して行っていたため、今回もきっと出来ると確信していました。その点で、学生気分が抜けていなかったのでしょう、まさに公私混同でした。仕事中に、上映会の書類申請先から電話がかかってきたり、またこちらからも書類を送らなければならなかったりと、仕事にも支障を来していました。もちろん、そのことが会社にばれないはずもなく、そのことは会社内で問題になりました。当初の私は、自分の作業が滞ることによって起こる上映会の仲間への迷惑だけを思い、悲しんでいましたが、徐々に自分がしてしまったことのことの重大さに気付き、いたく反省しました。まだ一人前の仕事もできず、お金をいただいて勉強させてもらっている身で、なんと身勝手なことをしたのかと、自分を恥じました。その後、きちんと謝罪したことで理解され、この時初めて私は社会人としての自覚えを持ち始め、また身の丈を知ることの大切さを痛感したのでした。

自分を活かすこと
 挑戦させてくれて、面倒も見てくれる、これほど有り難いことはないと思う反面、いまの仕事は十年続けるないようなものではないし、また自分の長所も活かされないという思いを、この1年間ずっと抱えてきました。いいものを後ろへ繋げたいという思いは、今も変わっていませんが、いまの会社がお客にしている人たちは、私がお伝えしなくても自分の力で文化も生活も発見していける力を持った人たちです。その方達に対して、私がお伝えできることは、正直ないのです。私は、まだ自分では文化も生活も見出せない、またはもうすでに自分の生活の中に文化やアートといった潤いがあることに気付いていない人たちにこそ、その魅力を伝えたい。その思いは、日増しに強くなってくるばかりです。今のまま、仕事を続けていれば人並みに一人前にはなれると思います。でも、それは自分を生かすことにも、活かすことにも繋がりません。だとしたら、早めに新しい活かし方を見つけたい。社会に出て、最初に入ったのがいまの会社であったことが私にとっての最大の幸福です。そのことも、いまの会社への恩義も忘れずに、次のステップに踏み出したい、そう思っている今日この頃です。

2013.06.24

来るべき時

来るべき時というものを最近強く感じている。

東京に越してきてから2年が過ぎた。

引っ越してきた当時、「行きつけの店」を持ってみたいと思っていたが、

なかなか薄暗いバーに1人で入る勇気もなく、

また自分で飲みに出かけてゆくお金もなかった。

そうして1年が過ぎ、「いつもの」店はできることがなかった。

その間、のれんをくぐった店もないことはなかったが、

もう一度足を運ぼうという気にもならなかった。



それが最近、「行くとしたらここ」という店が何軒かあることに気付いた。

「いつもの」というほど頻繁に通っているわけではないが、

でも一歩店を入れば、店の人にも「ああ」という顔で出迎えられる店である。

それは友人に連れて行ってもらった店であったり、

職場の先輩に連れて行ってもらった店であったり、

自分が好きで行くようになった店であったり。

経緯は別々だけれども、ふと「今晩あたり行こうかな」と思える店である。



ふとした時に、「あれ、そういう店できてるじゃない」と気づいた。



その時に、タイミングというものを思った。

望んでいてもできない時は、まだその時ではないのだな、

なった時がなるべき時なのだな、と思った。



わたしは、思い立ったが吉日という言葉を信じている。

それはタイミングというものを意識し始めた今も変わっていない。

思い立った時こそ、行動は始めるべき。

ただ、それが成就するかどうかは別の問題。

それが結実する時こそが、来るべくしてきた時なのだ。

それは行きつけの店がどうのこうのなどという小さなことだけではなく、

仕事にも、恋愛にも、はたまたもっと大きな人生の岐路でも言えることだと思う。



ただ、待っていれば時は来るのだからそれまで無為に過ごしていていいか、

というとそれも違うと思っている。

願い続けていれば夢は叶うということを、本当だとはよもや思わないが

かといって嘘だとも思っていない。

願っておけば、運が良ければそのうち叶うかもしれない。

とりあえず、願っておくことが大事である。



だから最近、のれんをくぐっておいてよかったな、

なんてどうでもいい呑気なことを思いながらビールを、レモンサワーを、焼酎を傾ける。

ようやく次の仕事が決まったから気分がよくって、

そんな好都合なことを思うのかもしれないけれど、

でも、来るべき時というものはたしかにある。

そう確信して、明日も働いていられることを幸せに思う。

本物にするために

自分にとって向いていることって何だろう。
本当は何がしたいのだろう。



今の仕事もあとひと月となって、周りは次の仕事の話をし始めた。

わたしはまだ何も決まっていない。

自分から営業をかける人脈はなく、直接声をかけてもらえるほどのキャリアもない。

まさに宙ぶらりんの状態。



「今後、どういう方向に行きたいかによって営業のかけ方も変わるんだけど、何がしたい?」



そう聞かれて、言葉に詰まってしまう。

どういう身の振り方をすれば、最終的に到達したい場所に行けるのだろう。



これをやって下さいと言われたら、うまくやれる自信があるけれど、

何がしたい?その方向に道筋を立ててあげますと言われても、

次に自分が何をしたいのかまだよく分かっていない。



最近、よく『それでも恋するバルセロナ』のセリフを思い出す。

「望むものは分からない。でも望まないものは分かっている」

まさにそんな状態なのだ。



昔から、与えられた制約の中で自由に泳ぎ回るのが得意だった。

制約のないところでは途端にどうしていいか分からなくなってしまう。



決められたルールの中でベストをたたき出してゆく。

それが強みであり、最大の弱点だった。



「あの子は自分の仕事を愛している」

同じ班の監督が、お酒の席でわたしについてこう話したらしい。

はじめ、それを聞いた時は「ありがたいな」とくらいにしか思っていなかった。



ずいぶん昔、印刷所へふらりと遊びに行ったとき、

工房のおじさんが自分の仕事の話を嬉々として2時間もしてくれたことを思い出す。

こういう風になりたいと思った。

そういう仕事人になりたいと思っていた。



いま、この仕事が自分にとって唯一無二のものなのかは、分からない。

向いているのかどうかも本当は分からない。

でも、好きだと思える。



だったら、きっとそうなんだ。

向いていようが、実は向いてなかろうが、自分にはこれなんだと思い込むこと。

思い違いすること。

R25の高橋秀美の言葉がじんわりと効いてくる。



「あの子は自分の仕事を愛している」



いまはこの言葉に縋ってみよう。

いま、目の前にあるものを思い違いすることによって本物にしてゆくのだ。



いろんな人のいろんな言葉が点となってわたしの心に落ちる。

ある日、点と点が繋がってうっすらと線になる。

線になったものがまた繋がって、ようやく輪郭が見えてくる。



もう一度、いまの仕事をしたい。やっとそこに立つことができた。

次の線は何だろう。

焦らず、でも決して目をそらさず、じっと見つめてみよう。